「二十四の瞳」1954
2.木下恵介が描いた涙
戦後の日本映画黄金期を支えた巨匠のひとり、木下恵介監督作品。天才と称される木下の映画で、おそらく最も多くの観客を動員した作品。日本が壊滅的な敗戦を経験して9年目に公開された本作は、その年の興行面と批評面で圧倒的好評を得ます。しかし高度経済成長に伴い戦災の記憶が薄れる中、いつしか“過去の名作”というありきたりなレッテルを貼られてしまいます。同年公開の黒澤映画「七人の侍」が永遠のNO.1として生気を保つのと好対照。なまじ国民映画的ヒット作であった故に、多様多彩な木下映画世界すべてを代表して過去に埋める錘になったかのようです。
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私たちは2011年3月11日を体験しました。その事実は、私たちが映像物語の世界に求めるものをどこかで確実に変化させていると思います。今は気付かなくても、近い将来私たちは必ずその変化を自覚します。それは「二十四の瞳」の映像に改めて2時間半向き合えば、感覚として理解いただけるはずです。日本と日本人が“もう自分たちには必要ないだろう”と思っていた感情を、もう一度拾い上げる時期に来たとわかるのではないでしょうか? 過去に経験した感情が、半世紀以上の時間を経てリフレインする予感があります。
本作の主人公高峰秀子演ずる大石先生は、分教場の教え子12人が不況と敗戦の渦中で翻弄される人生の立会人です。映画はクロニクルの手法で、先生と生徒が過ごした時間をただじっくりと見つめていきます。彼らは決して何らかの目的のためにアクションを起こすことはありません。常に変化は彼らの外側からやってきます。それに対する挑戦や抵抗はささやかなレベルに留まり、彼ら彼女らは宿命と運命を受け入れるしか術がありません。押し寄せる変化の力の方が圧倒的に大きいからです。その中で大石先生は幼い生徒に寄り添い、共に泣いてやることしかできません。ただただ一緒に涙を流してあげること、近代的自我を持つ個人が不条理を受容する際の辛さ、悲しさにただ寄り添って共感してあげる。ヒロインはそれしかできないのです。「七人の侍」が闘って運命を切り拓くことを象徴したドラマだったとして、その対極にある映画。それが「二十四の瞳」。昭和29年の老若男女は映画館の暗闇で、やはり一緒に涙にくれたのです。
巨大な戦災という悲惨を受容するしかなかった日本人が、ようやく復興期に入り辛かった体験を振り返る時期に、共に泣いてくれる涙と愚痴の映画を求めました。そこに真摯な劇作と演出で最良の作品を提供できる映画作家がいました。木下監督がこの映画に込めた工夫と苦心が半端なものではないことは誰にでもわかります。こういうコンテンツがかつて本当に求められていたことを、今年の私たちは再認識する必要があると思います。
前回記したように、個人の努力で変化させられない程巨大な人災は、天災被害とミクロ視点では大差ありません。前回の敗戦とその前後の大不況が私たちを翻弄した状況と、今年の東日本で起きたことは、個人の人生に与えるインパクトとして同質のものと思うのです。そこに寄り添うこと、一緒に嘆き悲しみ、愚痴と慰めの言葉を尽くす作家と作品もまた、人生に必要なものだと信じます。
辛い目に会えば人は泣くものです。悲嘆にくれ不運を愚痴ることでしか解放されない心の在り様は間違いなくあります。そこに共感する涙に浸るプロセスを経てこそ、もう一度立ち上がろうとする感情の再生は確かになると思います。そんな映画に精魂込めた木下恵介を、若い世代に再認識してほしいと願います。
「世界大戦争」1961
1.松林宗恵の描いた戦災
生前の松林宗恵監督に「世界大戦争」1961のお話をうかがった時、私自身が消化しきれなかった部分がありました。それは、監督が戦争の災禍を“人間の小賢しさで左右できない歴史の動き”として描いて来られた姿勢を語られたことでした。戦争も政治外交の一形態であるはずなので、どこか人智を超えた災禍と捉えることに小さな違和感を覚えた訳です。僧籍を持ち、仏教的無常観を基底においた創作を貫かれた監督ゆえの言葉と思い、その時は未消化状態のままに飲み込んでいました。そのまま数年を経て、その引っ掛かりは記憶の底に眠っていました。
2011年3月11日に東北の太平洋沿岸に起きた出来事のTV映像は、私に老監督の言葉を想起させました。「嗚呼、監督はこの感情のことを仰っていたのか…!」
戦争は確かに人為的なものであり自然災害とは異なります。しかし人為的な災禍でもそのスケールがあまりに巨大な場合には、自然の猛威と同様に渦中の個人を翻弄することでしょう。状況を克服しようとする個人の知恵と努力が無力化される程の災禍にあって、ミクロ視点から見れば天災と人災の差異は無くなります。「太平洋の嵐」1960で、沈みゆく空母飛龍の艦長山口多聞(三船敏郎)の亡霊に語らせた独白はそこに軸足があったのです。監督松林宗恵は常に戦災をそう描写し、その災禍の中にある人間にとっての無常を描き続けたのです。
かつて松林戦争映画への批評は、人災としての戦災に至った因果関係、加害者としての戦争経験への反省や分析を欠くとの指摘が常でした。その批判に妥当な部分はあるでしょうが、巨大な災禍の中に倒れていかざるを得なかった人間への視線として、私は松林映画の無常感を支持します。
津波による広大な廃墟を目撃した時代の当事者になってはじめて、私は太平洋戦争を経験した映画作家の精神の在り様を理解する資格を得たのかもしれません。いかに何も知らなかったかことか。さもわかったような顔をして、監督に向き合って相槌を打っていた自分が今ひどく恥ずかしい。そしてそれでも話をしてくれた松林翁の優しさを改めて知ります。
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都市破壊描写の直前に、フランキー堺演ずる主人公が自宅の物干し台に上って叫ぶシーンがあります。敗戦を経て16年、東京の片隅でささやかながら幸福といえる家庭を構え、そろそろ自分たちも少しは豊かな暮らしを楽しむことを考えようかと思っていた矢先の核戦争勃発。あまりに急激で巨大な危険が迫り、避難すらできない絶望の中で彼はただただ絶望の口惜しみを絞り出すことしかできません。本作に対して、戦争により被災する庶民の哀感に偏りすぎポリティカルフィクションとしての人間の尽力を描写しない物足りなさを指摘する批評は多くありました。しかし、本作の作者たちは徹頭徹尾、巨大な災禍の中で消滅せざるを得ない個人の無力に寄り添うことを選択したのです。そうするしかなかったのだと思います。
日本映画の黄金期は、敗戦の経験が観客と映画作家たちの記憶に鮮明だった時代と重なり合います。戦後に生まれ育った私のような観客は、彼らが映画に込め、共鳴・共感してきた悲嘆や無常感を理屈でしか知りえませんでした。2011年3月を経たことで、私は改めて昭和の日本映画に向き合ってみたいと思います。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」2010
「宇宙戦艦ヤマト」のファースト放映をリアルタイムで視聴したのは中学の時。毎週のTV放映の吸引力は当時強烈な記憶として残っています。「ヤマト」が再放映からブレイクして徳間書店の「アニメージュ」創刊を産み、今日のアニメ・サブカル文化の礎を形成するのはそこから数年以上の時間が必要でした。つまり思春期の男子にとって、当時リアルタイムのブラウン管に映る画しか存在しなかったです(家庭用ビデオ普及はもう少し後の話)。その“一期一会感”こそ個人的なヤマト体験。山崎貴が実写版を制作との報に接した時、どこかであの体験を想起させてくれるかもと思ったのです。放射能汚染された赤い大地に傾くスクラップ大和のイメージは、それなりに期待を紡いでくれたのですから。
この実写リメイク、私は限定的には評価します。コンテンツの色艶よりも金銭が好きな人々の邪な期待を背負いながら、30年以上前の思い入れの美化に対抗する創作は、どうしたって勝ち目の少ない勝負です。それを担ってみせる心意気には拍手したい。そりゃあ批判しどころは沢山あります。手放しで褒める作品ではありませんでしたが、オリジナルへの敬愛はちゃんと踏まえてある訳ですし、こういうチャレンジを貶めてはならないです。そこは認めた上での作品評価です。
新旧を素直に比較すれば、2クールのTVシリーズを単発劇場作品としてリメイクする無理は負担でした。CG実写による演出が部分的にはオリジナルを凌駕する場面もありますが、如何せん劇中で1年間にわたる物語を2時間半以内に収める無理は厳しい。まずシナリオの限界がそこにあるので、全ての描写が浅く唐突にならざるを得ない。結果人間描写もSF的な深みもひねりも明らかに不足してしまう。非常に残念。この撮影素材で1時間×7本程度のミニシリーズに再編集してTV放映なら見応えも変わることでしょう。
加えてファースト放映のファンにとっては、山崎貴監督はじめ主要スタッフが若干世代的に若いということもちょいと複雑な想いを抱かせます。結局「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」1978への思い入れが強い世代なんですよね。そこに執着が無い私としてはクライマックスへの共感がありません。そこも残念。一定の評価をすると言いながら残念を重ねる矛盾をご容赦ください。素直な気分がそうなのです。余談めいて印象に残ったのが、沖田艦長役の山崎努氏。ほんのワンカット、“念仏の鉄”的な演技と仕草を見せてくれたところがあって、少し微笑ましい気分もありました。
さて、そのように本作を振り返ると、自分の心にあまり刻まれていないことに気付きます。サラリと流れて記憶に残らないという感じです。シナリオに難があるとはいえ、オリジナルに沿った物語でありキャラクター配置なのです。しかるに昭和49年の少年の心を捉えて離さなかった何かはこのリメイクに存在していなかった、ということになります。それは一体・・・?
何のことはない、ここには“松本零士の画”が存在しなかった。もう少し言葉を加えるなら“メカニックと男の魂の艶”が存在しないのです。嗚呼、かつて自分はそのディティールの豊穣さと哀しい魅力に惹かれていたのだと再発見したのです。
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例えば1978年当時松本氏は「さらば・・・」のラスト展開に大反対しました。かつて日本の若者たちが絶望の中でなしえなかった“希望のための大航海物語”をこそ“ヤマト”に紡ぎたい、と。それはこのコンテンツの核心でもあった訳ですし、そこに“機械表現の豊穣さと色艶”が渾然一体となった魅力がファースト・ヤマトだったと思います。
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「キングダム・見えざる敵」2007
私のように超ドメスティックな日常を過ごし、目の前の諸事ばかりに没頭していると、世界の現実に我が身を重ねることを忘れがちです。例えばサウジアラビアに生きる人々の現実を想像するなど思いもよりません。私も平和ボケした日本人のひとりと反省します。
2007年公開の本作は、ハリウッド発のアクション映画の設えながら、サウジとアメリカのリアルな関係性を背景に、“テロとの闘い”が内包する浅薄さと絶望をシャープに埋め込んで見応えがありました。娯楽アクションというジャンルゆえ、政治的な立ち位置をはじめ様々な批判もありますが、大衆娯楽コンテンツにこれだけ真面目な志を内包させる心意気には共感です。
サウジアラビアの首都リヤドの外国人居住区−幸せな風景が一転、突如鳴り響く爆発音。自爆テロが勃発した。首謀者はアルカイダ・メンバーのアブ・ハムザと目される中、両国外交筋は穏やかな解決を望んでいたが、FBI捜査官ロナルド・フルーリー(ジェイミー・フォックス)だけは違った…。死傷者300人を越える犠牲者の中に仲間のFBI捜査官も含まれていたのだ。直ちに捜査に向けて4人の精鋭チームを結成。テロの黒幕の本拠地を突き止めるべく、ホワイトハウスそして国防省と交渉。たった5日という期限付きながら、サウジアラビアへの極秘捜査の許可を得るが…(以上公式HPより一部転載)
映画冒頭の数分間、サウジアラビア王国と合衆国の関係を軸にしたアラブ情勢の現代史経緯がコンパクトに説明されますが、これがお見事。これからのドラマ展開を味合う予備知識の供給ですが、国際ニュースを見ても混乱する事象が(乱暴な省略はあれど)端的に把握できます。これは便利。
やはり我々が驚くのは、サウジが「王国」である事実。莫大なオイルマネーは決して国民全体の富ではないという事実。イスラム世界と真っ向対立するはずのアメリカとが手を携える合理と歴史の皮肉。結局、9.11の背景には何が横たわっているのかに、私のように無知な観客すらも思いを馳せざるを得なくなります。本作を観て戦慄を覚えるのは、ガンアクション演出がサスペンスフルだからだけではないのです。
観客が感情移入するのはあくまで王国に乗り込むFBIの精鋭たち。彼らが味わうカルチャーギャップから、この皮肉な物語に入り込んでいく訳ですが、やはり中盤以降からグイグイ胸に迫ってくるのはアシュラフ・バルフム演ずるサウジ警察幹部の心情描写。彼を米国シンパ的なポジションに置くことは確かにお約束ですが、そこに米国TV映画の影響を描くことで不自然さを中和します。そのあたり細やかな配慮が行き届いた脚本にも感心します。
紅一点ジェニファー・ガーナー演ずるFBIの女性は、ボディラインも露わなTシャツ姿でありながら、あまりトラブルを招くシーンが思いのほかすくないです。何となく「?」と思ってましたが、最近サウジから帰国されたソフィアバンクの藤沢久美さんにお訊ねしたところ、海外からの客であってもそんな格好で人前に出ることなどあり得ない、と教えていただきました。成る程、あまりにリアリティがないことなので視覚効果のひとつということかと腑に落ちました。それほどに我々の世界とは社会通念が異なる訳です。
ラスト30分のアクションは相当な見応えですが、ここは娯楽映画としてのお約束。多少は割り引いて観たほうが良いでしょう。それでも復讐の連鎖という皮肉への目配りは忘れないセンスが光ります。やはりハリウッドを侮ってはいけません。こうして映画を愉しみながらも、世界に想いを馳せることは怠らないようにしよう、そう反省するこの頃です。
「氷雪の門 樺太1945年夏」1974
終戦の年、8月15日を過ぎたにも関わらず樺太で起きた最後の地上戦。ポツダム宣言を受諾し無条件降伏をした日本ですが、8月23日頃まで他国の軍隊に領土を蹂躙され一般市民の殺戮が行われていた事実を、多くの日本人が知りません。本作は、樺太の悲劇の中でも比較的有名なエピソードである、真岡郵便局の9人の電話交換手による集団自決事件を主軸に描いた36年前の映画でした。しかも驚くべきことに、本作が本格的に劇場公開されるのは今年が初めてです。
1945年8月9日、長崎に2発目の原子爆弾が投下された日、ソ連(当時)は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州および樺太への軍事侵攻を開始。丁度日本政府はソ連を仲介役にした和平工作を水面下で交渉中であったために、帝国陸軍は積極的な防衛攻撃を行えない。それに乗じたソ連軍の侵攻は8月15日を過ぎても止むことがありませんでした。樺太各地の婦女子に緊急の本土疎開措置がとられますが、終戦の詔勅と同時に日本全軍には即時戦闘行為停止命令が出ます。樺太在住の市民たちは、まったくの無防備状態で国際法違反で侵攻するソ連軍から逃亡せざるを得なくなってしまいました。
樺太西海岸の真岡町、その郵便局に勤務する若き電話交換手たちのうち9名が、最後まで通信回線を守るために勤務を続けます。そして8月20日、真岡を蹂躙するソ連軍を眼前に、彼女らは集団自決を選びました。その碑は宗谷岬に建立されています。彼女らが発した最期の通信、「皆さん、これが最後です。さようなら…」という碑文が刻まれています。
さて、本作は、1974年という平和ニッポンの真っ只中で企画制作された映画です。キャストの豪華さや、ソ連軍戦車隊の侵攻を再現するために自衛隊の全面協力も得ているなど、当時としても大作の部類に属す立派な作品です。にもかかわらず、この映画はメジャーの映画興行が実現していません。当時地方の東映洋画系で1週間ほど興行されたのみで、完全にお蔵入りとなったのです。理由は、「反ソ連的な内容の映画興行はいかがなものか」という旧ソ連側からの声への配慮等があったと記録されていますが、当時の真相はよくわかりません。。
Ⓒ「氷雪の門」上映委員会
36年後の2010年、東京渋谷のシアターNで公開され、小規模ながら全国ロードショーという展開になっています。ただし、本作のオリジナルフィルムは既に消失しているため、ビデオに起こしてデジタル処理をしたのち再度フィルム化したものです。したがって、大型プロジェクターでVHS再生を観賞しているような質感という難点があります。ドラマの悲劇のみならず、これだけの想いと努力が結晶したクリエイティブが、二度と本来の質感を取り戻せないことが哀しいです。
さて、樺太の悲劇を理解するには、本作を観賞するのが近道ですが、その上でお薦めしたいのが、倉本聰が1976年に書き下ろしたTVドラマ脚本「幻の町」(東芝日曜劇場)。これについては4年前に記したページがありますので、以下のリンクをご参照願えれば幸いです。
http://d.hatena.ne.jp/kaoru1107/20061119
「暗闇仕留人」1974 「必殺必中仕事屋稼業」1975
講談社から発売されている必殺DVDマガジン。レンタルに出てきづらい初期の必殺シリーズからキャラクターごとに2エピソードずつ抽出して廉価で販売。そうそうDVD-BOXなど買えませんのでこれは助かりました。お蔭で久し振りに再会できました。若き石坂浩二演ずる“糸井貢”と、演者として旬の時期にあった緒形拳演ずる“知らぬ顔の半兵衛”に、です。
必殺DVDマガジン 仕事人ファイル7 糸井貢 (T☆1 ブランチMOOK)
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そもそも“必殺シリーズ”の特異性とは、それまで時代劇のお約束だった『殺し屋=敵役』の構図を壊し、『悪党である殺し屋が、稼業としてではあるが人情として許しがたい自分以上の悪党を人知れず葬る』という作劇にありました。それが人気を得て連作されていく訳ですが、私の心を打ったこの2作は、シリーズ開始後3年から4年で登場した初期の作品です。殺し屋を主人公とする物語という枠組みを守りながらも、主人公たちの内面の葛藤にグッと踏み込んで描きこむスタンスが、最も顕著だったのではないかと思います。80年代以降の“仕事人ブーム”には望み得ない、真摯な作劇志向がそこにはあったと思います。
糸井貢は蘭学者崩れの名も無き幕末インテリ、半兵衛は博打好きな蕎麦屋のオヤジ。それぞれドラマの設定は異なれど、従来の時代劇ではヒーローであるはずのなかった人物像が、非道の悪党を闇に裁く殺し屋として成長し、やがて破滅していく物語に、思春期の少年だった私はひどく影響を受けたと思います。もちろん、先鋭的で戯画的な殺人描写のカッコよさに惹かれたこともありますが、彼らが内面に抱え込んだ葛藤の闇の深さのようなもの(中学生がそんなに論理的に考えたりはしないので、後になって思うのですが)に影響されてしまったようです。人間は通り一遍の理屈や属性で割り切れる存在ではない、という人生の真理のようなものを感じた、とでもいいましょうか? そんなこんなの影響を与えまくった“必殺シリーズ”は、いかなる若い熱気の中で生み出されたのかについては、春日太一氏の「時代劇は死なず!」に詳しいので興味ある方はぜひお読みください。
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なお、当時の必殺シリーズは、1976年にいよいよ特異な傑作、「必殺からくり人」というミニシリーズを創出する訳で、私の最も好きなTV映画のひとつになりました。そのお話はまた後日といたします。
「2001年宇宙の旅」1968
BDプレーヤーとしてPS3を利用しています。これがなかなか良い画質。レコーダー機能は不要と割り切って使ってみると、ゲーム機のユーザビリティは明らかに家電メーカーの思想と異なります。こういう微妙な実感差異って、今起きつつある変化を認識する上で結構大事だと思います。
と、いうことで久々にBDで再見した本作。40年以上経過しながらここまで陳腐化しないビジュアルセンスとクオリティ。畏れ入ってしまいます。BDの情報量と大画面TVによって、家庭内視聴でも質感を再現できるようになった訳ですが、劇場未見の立場として、これはやはり劇場で体験したい。
アーサー・C・クラークの原作からスタンリー・キューブリックが大胆にイメージを描き、視覚効果の偉大な職人ダグラス・トランブルが緻密で美しい特撮映像を展開。CGなど一切存在しない当時の創作環境です。いかにビッグ・バジェットを費やしたとはいえ、当時の技術でここまで完璧な空想映像を構築したことがまず驚異的。科学考証上若干のチグハグさはあるものの、半世紀近い間に一般に認識された情報との格差を思えば気にする程ではありません。そんなことより、本作がその後のSF映像、宇宙ファンタジー映像のあり方に与えた影響の大きさを感じ、圧倒されてしまいます。本作のあと「スターウォーズ」まで約9年かかるのですから。
映画110年の歴史の中で、明らかにクラシックとなった作品がありますが、本作の冒頭20分はまさに映画話術の標準になっています。一切のセリフや説明抜きの確固たるショットの積み重ねが、過去から未来に至る時空間の連なりと形而上的テーマを端的に伝えてしまいます。そのシンプルな力の凄さです。散々語り尽くされたとはいえ、類人猿の放り投げた骨に、私たちは自分達の歴史を見出せずにいられません。キューブリックのセンスはここに永遠を手に入れました。
若い頃はストーリー追い的な見方をしがちだったので、本作のゆったりとした語り口と徹底した説明書略に、うまく乗り切れませんでした。でもいい歳になって観てみると、キューブリックの狙いがしっくりきます。良い感じです。何より画面の隅々までイメージの粋を凝らしたディティールの豊かさ。その美しさ、センスの良さ。キーボード付きPCと携帯電話、スマートフォンの発想が現実と異なったくらいで。2010年代に生きる現在の観客にも陳腐さを感じさせることはないでしょう。CG全盛の現在の映画ですら、5年も経過すればおやおやと思わざるを得ない作品があるのに比して、本作の屹立する位置がいかに高みにあるかに感嘆してしまいます。真に一流の映画です。これこそ3D化して劇場にかけるべきです。
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さて、冒頭に少し記したゲームメーカーと家電メーカーのユーザビリティ哲学の差異は、本作のテーマである、人類とテクノロジーの進化のあり方を考える上でも捉えたい観点です。私たちはいついかなる時代にあっても、自分が生きてきた時間の中で常識と認識してきた枠組みから離れることに不得手です。既に変化は生じているのに、旧いものからの既得感覚、そして既得権益を捨てることが下手糞です。新しいものが抱えるリスクを思うと怯えも感じますが、新しい潮流の中で過去の問題を超越できるチャンスが得られるかもしれません。未来とは可能性を信じた人間達だけが拓いてきたものだと思いますので。
- 作者: アーサー・C.クラーク,Arthur C. Clark,伊藤典夫
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