「父親たちの星条旗」2006

kaoru11072006-11-05

劇場で観てまいりました。
行きつけのシネコンは最新鋭ですが連休中でも賑わいはまばら。私が観た回は200名定員の小屋に30人も入ってませんでした。残念ながらこれでは閉鎖も時間の問題でしょう…。



太平洋戦争末期の激戦、硫黄島攻防戦を日米双方の視点で映画化したこのプロジェクト。

クリント・イーストウッドスティーブン・スピルバーグの実績と名声と経済力によって実現させた事実それ自体が賞賛に値します。
よく、在郷軍人会等の妨害に合わなかったものと感心します。

こうした試み自体は決して初めてでではなく、20世紀FOXの大プロデューサー、ダリル・F・ザナックが、「史上最大の作戦」「トラ・トラ・トラ!」で先鞭をつけています。

今回は、これを2本の独立した映画として両立させることが新発想です。



父親たちの星条旗

父親たちの星条旗


プライベート・ライアン」が戦場描写を一変させたので、以後の作品はそれを踏襲することになりました。
この映画も例外ではありません。
海兵隊員の視点にカメラを据えて、これでもかという程の臨場感を味あわせます。(日本では年齢制限していないような気がしましたが、大丈夫でしょうか?)
そして、それは成功していると思います。


物語の主人公たちは、たまたま擂鉢山に星条旗を立てる姿を写真に写された故に、英雄扱いの渦に巻き込まれて行きます。
それは本意ではなく、戦場で悲惨な最期を遂げた戦友たちを思えば忸怩たるものがありました。
しかし、政府と軍のプロパガンダの神輿に乗っている限り、戦場に戻らずに済むという安堵と打算もあったことでしょう。

映画はこの3人の英雄の翻弄される姿と、戦場の記憶のフラッシュバックをひたすら映し続けます。


脚本のポール・ハギスも監督のイーストウッドも、これまでのコンビ作以上のクールさで、主人公たちを突き放して見つめています。
その冷徹な視線故に、戦場描写の怖さは一層際立ち、主人公たちが自らの記憶に恐怖し支配される感覚を追体験させる効果を上げていると思います。

唯一の例外は、ラストシーン。
束の間の海水浴のシーンのみが、メルヘンタッチで描かれていて、戦場の悲惨を共有した者たちのみに通じる共感と友情を伝えます。


最近、劇場ではやや前方に席をとり、ビスタサイズがほぼ視界を占領するくらいで観るようにしているのですが、今回はその分迫力も倍増。観終わったらぐったり疲れました。



それにしてもこの映画を観ると、9.11.とイラク戦争の膠着は、米国民の感覚を明らかに変化させたのだなぁと思わされます。

戦争の悲惨は、多少のヒロイズムなど粉砕してしまうものだということは、壊滅的敗戦を経験した日本人は60年前に理解しましたが、合衆国ではなかなか難しいと思っていました。

確かにベトナムの体験は、ハリウッド映画の描写にも明らかな変化をもたらしましたが、それでもその経験は現地ににあった物語だったと思います。

しかし、現代のNYのど真ん中で起きた大規模テロを体験したことは、非戦闘員を広く巻き込んで、この世には不条理で強大な暴力の洗礼があるのだということを認識させたのでしょう。


そうでなければ、こうした物語と演出を、ハリウッドのトップたちが本気で取り組むことなどなかったのではないでしょうか?



この映画もそうですし、「ブラックホーク・ダウン」でもそうでしたが、“何故戦うのか?”という問いに対しては“戦場においては唯一、戦友のためにのみ戦うと言える”というメッセージをテーマに据えています。

おそらく、米国兵士たちの実感として、それがもっともリアルな感情なのでしょう。


しかし、戦場の混乱がどうあれ母国と故郷はゆるぎないものと思えていた彼らに対し、60年前の日本兵士は母国と民族自身の存亡の危機を感じていたことを思わざるを得ません。

母国と故郷の家族、恋人の安泰を少しでも維持できることにつながると信じていたからこそ、勝算のない戦場とわかっていても身を投じたのだということです。


第2部となる「硫黄島からの手紙」では、イーストウッドがそのあたりを汲んでくれたのかどうかに、ぜひ注目したいと思います。


※米国の関係者が生存している限り難しいでしょうが、もし映画の神がいるのならば、同様のプロジェクトで“広島・長崎”を描くことを、日米の映画界に許して欲しいものです。

※このプロジェクトは、ぜひ黒澤明に観てもらいたかったと思います。