「硫黄島からの手紙」2006

kaoru11072006-12-08

同じ作品を複数ページでコメントするのは初めてですが、いたしかたありません。
昨日は書きなぐってしまいましたので、改めて記させていただきます。


以下、私が本作を高く評価する理由です。



①一切の安易さ・安直さを排していること

この映画の宣伝を見聞する限り、当時の将校としては卓越した頭脳・センスと人徳を有した栗林中将(渡辺謙)のヒロイズムを軸に据えた戦争映画だと見受けられます。現に私もそう思ってました。何故ならそういう英雄的活躍(それも絶望的状況であればなおさら)は、アクション映画としての戦争映画の面白さのツボであり、定石であるからです。
ところが驚くべきことに、そうした描写が存在しないのです。“米軍の圧倒的戦力に一泡吹かせる醍醐味”など殆どありません。敵味方の彼我すらわからない混沌とした状況。それが戦場だと観客の目すら突き放します。私たちは登場人物と共に、その過酷な混沌を疑似体験するのみです。「父親たちの星条旗」と共通した作者たちの気構えがそこにあります。
確かに栗林氏の人間性がきっちり描写されていますが、決してヒーローとしての扱いではありません。昭和20年の硫黄島という状況に投げ出されたひとりの人間として、それ以上でもそれ以下でもなく、きちんとカメラは捉えます。それは決して簡単なことではありません。
この映画は娯楽映画です。2時間20分という長尺で、観客を飽きさせることなく画面にひきつけるには、“ドラマティック”になる要素はいくらでもつぎ込みたいはずです。でも、イーストウッドとハギスは徹底した禁欲さでそれを行いません。
それがこの映画に端正な品格と知的な洞察とを貫かせ、観客の末梢神経ではなく中枢神経を触ってくる“面白さ(不謹慎かもしれませんが敢えてこの言葉を使います)”となって伝わるのです。そしてそれは、硫黄島に眠る日米の戦死者に対する誠意であると思われます。
そう、それは主役も脇役もない、善玉も悪玉もない、人間の尊厳の問題なのです。人間の尊厳、その意味で、確かに「ミリオンダラー・ベイビー」の次回作でもある訳です。


②日本人の心情と行動を歪めることなく描いていること

出演者に日本の俳優が多いというだけで、この作品はアメリカ映画です。にもかかわらず、描写されている人物の言動、仕草、思想信条から台詞で語られる様々な背景に至るまで、殆ど違和感がありません。若干おやと思うところもありますが、鑑賞を阻害するレベルではありません。
これは言うほど簡単なことではありません。映像の情報量は非常に大きく、被写体に対する理解が不足していたり誤解・曲解があれば、それはすぐに画面に反映されてしまいます。過去から近作に至るまで、日本人を描いた海外の映画を思い出せばそれは明らかです。
太平洋戦争末期に出征した日本人の抱いていたはずの思いが、我々日本人が観てまったく違和感なく画面から伝わってきます。しかも、ここまでのレベルで真情を伝ええた日本映画が決して多いわけではないのです。米国資本で米国スタッフで、非アングロサクソン民族の物語をきちんと描き出すその真摯な態度には敬服してしまいます。
例えば、現在日本人があらゆるメディアのドラマで避けている“靖国で会おう”という台詞が、きちんと表現されています(誤解のないように記しますが、所謂靖国問題に言及しているのではありません。当時の日本兵ならその状況下で当然口にした言葉というリアリズムの問題を言っているのです。安っぽいイデオロギーは常にリアリズムを排除しますから)。
例えば全編を日本語で通していること。当たり前のように思うかもしれませんが、ベルトリッチの「ラスト・エンペラー」が中国ロケと東洋人キャストで皇帝溥儀を描きながら、全編英語劇だったことを思い起こしていただきたい。フランス人がパリで英語で語らうハリウッド映画は沢山ありました。決して容易なことではないのです。
スピルバーグイーストウッドブランドで、この日本人像が世界中に配給されることを、嬉しくも誇らしく、同時に悔しく思います。


③当たり前の話だが、人間の真実をちゃんと描いていること

米国側を描こうが、日本側を描こうが、制作者たちはまっとうに人間を見つめて描いてくれています。
人間は決して合理的な存在ではないことを、きちんと描くことでドラマを成立させています。それは劇映画の歴史の中で培われたドラマトゥルギーであり、特殊な制作プロジェクトであろうがなかろうが当然のごとく貫かれるべきものです。ただビジネスの現場では、決して簡単なことではありません。表層的な興行価値にのみ流されてそれを貫けず、芸術・文学としての普遍性を失った作品が、古今東西でいかに多かったことか。
これは①と一体のことです。英雄が常に英雄らしく生きて死ぬわけではありません。ひ弱な臆病者が怒りに我を忘れることもあります。活躍が期待されながらあっけなく世を去ることも、正義を貫こうとしながら不正を働くこともいくらでもあります。世界はそういう不合理と不条理で編み上げられていて、苛烈な戦場ではそれが顕著であるということです。
戦場の只中での日米双方の捕虜の扱いひとつとっても、その描写は客観的なフェアネスに貫かれています。そこには人間の崇高さと愚かさが当然のように混じり合っているのです。それらをちゃんと物語の面白さへと昇華させることはたやすい事ではありません。


④日本人キャストの演技レベルが非常に高いこと

これは理屈ではありません。観ていただければわかります。俳優たちのモティベーションがとても高く維持されていたことがよくわかります。主要キャストの髪型ひとつにも表れています。日本映画ですら髪の長い日本兵が大勢いるのですから。
世の中のあらゆる仕事がそうであるように、高い志を抱いた仕事には必ずリスペクトが寄せられます。特に、渡辺謙二宮和也伊原剛志加瀬亮の演技は素晴らしいものでした。



…ことほど左様に、
戦争と戦場を描いた世の映画の中で、この作品は最も良質で高品質なもののひとつです。間違いありません。「父親たちの星条旗」をセットで1本と考えるならば、唯一孤高の戦争映画となります。


例えば、第2次大戦直後に生まれたイタリアン・ネオリアリズム。例えば、昭和20年〜30年代の円谷英二による特撮技術。例えば、ハリウッドで積み重ねられたヒューマンなドラマづくりのノウハウ。エトセトラ…。そういった過去60年間くらいの中で培われた映画の資産を、ちゃんと生かして作られた映画だと思います。

そして、そういう想像力と創造力をもって、近現代史の中で多くを語られずに(少なくとも日本では)来てしまっていた“硫黄島”を描写した事実、米国人が日本人の物語を真摯に描き出したという事実はあまりにも大きく重いです。
本作に、主要なオスカーが与えられるようなことがあれば、いろいろと揶揄されることも多いハリウッドおよび米国ですが、私たちはその底力と懐の深さと芸術的良心の高みを真摯に再認識しなければならないでしょう。


もっと面白い映画はあるでしょう。もっと素敵な映画はあるでしょう。
しかし、私にとって「硫黄島からの手紙」は生涯大事な映画です。
クリント・イーストウッドに深く敬意を表します。

…おそらくは、かつて黒澤明も「トラ・トラ・トラ!」でこのレベルの映画を目指したのだろうと思います。不幸にしてそれは実現しませんでしたが。
「用心棒」を盗用(?)した「荒野の用心棒」でメジャーとなったイーストウッドが、時を経て黒澤に恩返しをしたのかもしれません。その意志を継いでくれたような気がします。

『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて 黒澤明VS.ハリウッド

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