黒澤明の創作と挫折の秘密

kaoru11072006-12-14

7月12日に記したモチーフと重複しますが、今回は改めて黒澤明について。

硫黄島の手紙」について考えると、結局「トラ・トラ・トラ!」(1970)に辿り着いてしまいます。そして、黒澤明という、おそらく日本映画史上最も面白い作品を生み出した稀代の巨匠を思わずにはいられません。


トラ・トラ・トラ!」とは、太平洋戦争の開戦となった日本海軍による真珠湾奇襲攻撃を題材に、日米双方の視点からの物語を持ち寄って1本の戦争スペクタクルを創作した作品。1970年に完成した映画はアメリカ側監督がリチャード・フライシャー。日本側監督が舛田利雄と深作欣ニでした。
そして、そもそもこの企画において、日本側監督として当時の20世紀フォックスからオファーを受けたのが、黒澤明および黒澤プロダクションでした。
黒澤はそれから、連合艦隊司令長官山本五十六を主人公にした膨大な脚本の創作に没頭し、フォックスのプロデューサーとの折衝を繰り返して決定稿を作成。日本側登場人物のキャスティングを経て、撮影に入るところまではこぎつけています。しかし、撮影開始後4週間で監督解任に至ってしまいます。

この解任騒動は、当時(1968年)相当話題になりましたが、関係者の証言や会見内容が様々に食い違い、その真相は映画関係者の中でもまさに藪の中、未解明の謎とされてきました。
黒澤明自身がすでに鬼籍に入り、邦画界最大の謎もそのまま風化するかに思えていましたが、今年、文春から「黒澤明vsハリウッド」(田草川弘著)が刊行され、その真相に相当なレベルまで理解することができたのです。

いや、このノンフィクションは文句なしに面白い。
黒澤明という邦画界の巨匠が、ハリウッドメジャーからの画期的な企画とオファーを受けて、何をやろうとし、何ができなかったのか。そしてそれは何故悲劇的な結末に至ったのかについて、徹底した取材と事実の羅列をもって誇張なく解明してくれます。
多少なりとも映画に興味のある方ならば、別段黒澤映画のファンならずとも十分堪能していただけるはずです。

現在から振り返ると、そこには本当に些細な誤解や勘違いの積み重ねが事態の根っこにあったことが推察されます。また、天才と呼ばれた人特有の個性の発露が影響していたようですし、周囲の人間たちの配慮や遠慮も絡み合っていたようです。
ひとつひとつは何気ない人間の思考や感情の累積が、大きな破綻に結びついていくさまを追体験させられます。

黒澤はこの日米戦争という題材を料理し得なかったのではないか、という見方もあったようですが、どうやらそれはありません。完成した映画のクレジットには一切“クロサワ”の名はありませんが、少なくとも日本側の描写は、黒澤が手がけた脚本に殆ど基づいています。それだけに、この映画の黒澤演出版をひと目見たかった、と心底思うのです。

ただ、このノンフィクションでも記されていますが、最も大きなつまずきは、黒澤が主要なキャストをプロの俳優でない、海軍経験のある一般の社会人で固めてしまったことにあったようです。事実、黒澤降板後の完成作は、皆プロ俳優で制作されています(山本五十六山村聡)。そのあたりの顛末は痛々しくも興味深いのですが、関心のある方はぜひ読んでみてください。


私は、黒澤映画全作品を観ているほどのマニアではありません。しかし、「羅生門」「生きる」「七人の侍」「天国と地獄」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」の面白さは日本映画の最高峰に位置していると確信しています。
そして、その創作のステージをより高いレンジに導いたのが、俳優三船敏郎との出会いであり、脚本家橋本忍との出会いだったと思います。
橋本忍との出会いと創作の秘密については、こちらも今年刊行された「複眼の映像」にて明らかにされています。

複眼の映像 私と黒澤明

複眼の映像 私と黒澤明

もし、まだ黒澤映画を未見の方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひ、前述の7作品は死ぬまでに観ておかれることをお薦めします。