「サンダカン八番娼館 望郷」1974

“日本映画もここまで来たか、と言える映画が今年(1974年)2本出てきた。「砂の器」と「サンダカン八番娼館 望郷」だ”
当時よく聴いていた「淀川長治ラジオ名画劇場」で淀川さんが言われたこの言葉は明確に記憶に残っています。
山崎朋子のノンフィクションを熊井啓が脚本化し監督した映画です。昭和49年キネマ旬報ベストワンでした。

サンダカン八番娼館 望郷 [DVD]

サンダカン八番娼館 望郷 [DVD]

DVDがレンタルにも出回ってきたのは喜ばしい限りです。久しぶりに再見。
原作者をモデルにした女性史研究家に栗原小巻、彼女が出会った“からゆきさん”の過去を持つ貧しい老女に田中絹代、その若い日々を高橋洋子が演じています。この他にも、ボルネオの娼館の善き女将に水の江滝子など、充実のキャスティングです。

“からゆきさん”について語られることが少なくなってきたような気がしています。近代化していく日本の影にあった現実。極貧の口減らしとして、外貨獲得の一助として、海外に売られていった少女たち。日本の海外進出の事実上の先兵でありながら、その存在を忌避していく国内の意識に傷つけられていった女性たちが紛れもなく存在しました。
それは、男たちの苛烈な戦場と並行していた、女たちの戦争だったと思います。

この映画はリアリズムと寓話の融合のようなテイストで、この貧困と女性の物語をきちんと描き出しています。前述のキャスティングをはじめ、その製作姿勢は非常に誠実に感じます。
とはいえ、肩の凝る社会糾弾ものかというとそんなことはありません。語り口がとても上手く、物語に抵抗なく引き込まれていく面白さを持っています。ラストシーンまで観る者の心を揺さぶる構成です。


その語り口の面白さとヒロインの背負った歴史を支えて見事だったのが、何と言っても田中絹代の名演。稀代の名女優の映画出演はこれが最後でした。
十代の頃から可憐なスターであり続けていながら、加齢と共にその役柄もシフトして“老醜”を演じきるプロ意識は敬服に値します。「楢山節考」(58年木下恵介)で前歯を抜いて演じたエピソードが有名ですが、この映画でも血管を浮き立たせるために、腕の付け根を輪ゴムで縛って演じていたそうです。
この田中絹代演じる“おさき”の表情、台詞回しが本当に心に染み入るもので、ヒロインの諦観と優しさ、哀しさと強さを説明抜きで伝えてくれます。ラストの15分間。私は何度見ても涙を止めることができません。

おそらくこの時には、脳腫瘍に犯され始めていたのではないでしょうか。映画女優としての次回作に参加することなく、77年に逝去されます。来年は、田中絹代没後30年にあたります。



田中絹代の名演と高橋洋子の体当たり演技ばかりが言及され、栗原小巻がかすんでしまっていますが、彼女の華のある存在感は、演出上の大事な要素だと思います。
現代のシーンの大半は、栗原・田中が座って話しているだけの画面です。どちらかの演技力と画面に与える力感が乏しければとても持たないでしょう。それが成立するのですから、このダブルヒロインは成功ではないでしょうか。
もっとも、白状しますと私は“コマキスト”ですが、その贔屓目を抜きにしても、そう明言できると思います。