「忍ぶ川」1972

72年のキネマ旬報ベストワンだった作品。熊井啓監督入魂の佳品。

私は、何故この映画が当時そんなに高評価を得たのかずっと不思議に思っていました。
確かに俳優座の若手看板だった加藤剛栗原小巻は、清潔で美しい恋愛映画の主役として極めてまっとうだと思いましたが、何だか当たり前すぎて…。
書籍上の記載を見ても通り一遍の事しか書いてありません。なかなか上映の場に出会えず“まだ見ぬ強豪”を待つような気分でした。

TSUTAYAがDVDの旧作に力を入れ始めてくれたおかげで、ようやく出会うことができました。

忍ぶ川 [DVD]

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成る程、これは清冽で端正。恋愛感情に内包される魂の結晶のような映画でした。高評価にも大いに納得しました。


人間は、貧しさや病や大小様々な業を背負う社会的存在です。それらの多くは個人の少々の努力では如何ともしがたいものであり、それを大袈裟に呼べば宿命と言うことができるでしょう。
恋愛感情に伴う人間の感情の美しさは、相手の背負う世界をまっすぐに見つめて受けとめることにあると、私は思っています。この映画は、そのことに焦点をぴったり合わせた120分をフィルムに焼き付けていました。


廓街で生まれ戦災を経て神社のお堂を間借りした家庭で育ち、小料理屋に住みこみで働く志乃。北国の旧家の兄姉が次々と精神を病み不幸と不孝を重ねたことで人生に深く悲観していた、若くない学生の哲郎。
昭和30年代の東京で出会った二人が、お互いに自分の背負ったものを晒し合い、静かに惹かれあっていく様が淡々と描かれていきます。
おそらく三浦哲郎の原作(未読)にテーマは明示されているのでしょうが、映画はそこから逃げることなくきちんと映像に刻んでいきます。

そうした演出を支えているのが、何と言っても栗原小巻の美しさ。容姿はもちろんですが、当時としても作者の理想化した女性像だったと思われる立ち居振る舞いと言葉遣いの美しさが鮮烈です。
女性から観たらどう思われるかわかりませんが、大人の男でこのヒロイン像に惹かれない者はいないのではないでしょうか?


このヒロインの志乃。実は吉永小百合がその役を演ずることを切望し、映画製作にも動き出していたという経緯が有名だったようです。ラストの全裸の初夜シーンに難色を示した親の反対で計画は頓挫、以後吉永小百合は両親との断絶に向かっていき、出演作の傾向も変わっていくきっかけになったと記憶します。
そういう曰くつきの役どころを、栗原小巻がほぼ完璧に演じきっています。吉永の志乃も観てみたい気はしますが、これだけの印象を残されたら小巻の勝利でしょう。

そんなヒロインのイメージが素晴らしいですが、それのみでなく幾つもの何気ない場面に私は泣かされ通しでした。
例えば、哲郎が血縁の悲劇を白状した手紙を住み込み先の寝床で読んで涙をこぼす志乃の表情。
例えば、自分のことなんか捨ててさっぱりと幸せに生きろと語る、貧しく病身にある志乃の父(信欣三)の名演。
例えば、結婚祝いにこれしか贈るものがないと手作りの箒を手渡す志乃の弟と、受け取って礼を言う哲郎の明朗な笑顔。

今の若い世代にはリアリティが感じられないとは思いますが、経済的物質的にな貧しさと魂の美しさは本質的には無縁であることについての描写だと思います。



今、日本映画は洋画を凌駕するほどに元気だそうで、シネコンはいつもラブストーリーで一杯ですが、表面的な悲喜劇にとどまらず、この映画にあるくらいまで、恋愛感情の奥底に輝く人間の魂の美しさまで深堀りした物語であることを願ってやみません。