「時をかける少女」2006

kaoru11072007-06-23

昨年夏の公開時にテアトル新宿で観て絶賛してから1年近くが経過しました。早いものです。

DVDで再見しましたが、私の評価は変わることはありません。絶賛に値します。極めて私的な評価に過ぎませんが。


私は何故、本作をそれほど評価するのでしょうか?

まずは、昨年の文化庁メディア芸術祭:アニメーション部門大賞受賞理由を引用します。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/sakuhin/sakuhin/anime01.html

みごとである。アニメーションの枠を超え、人の心を動かす映像作品だ。
原作の要素を分解したうえで現在の空気感に合わせて再構成する大胆さと、誰もが抱く本能的心情を重層的に配置して丁寧に描き切る細心さ。
物語と語り口の前にアニメーションとしての技術論は無意味だが、アニメーション以外にこれ以上的確に表現する方法があるだろうか? さまざまな技術があふれる現在、動かせない「画」はない。決して潤沢とはいえない条件の中で「画」のみに頼ることなく、確かな立脚点と揺るぎなき視線で「演出」された作品が生まれたことを喜びたい。

ここに記されているように、“確かな立脚点と揺るぎなき視線で「演出」された作品”は優れた創作の相当部分の定義です。
それが実写であるか、特撮であるか、アニメーションであるか、そんなことは瑣末な話です。

細田守という優れたアニメーターが筒井康隆の原作を映像化したいと思い、奥寺佐渡子に脚本を委ね、そこから絵コンテを記した上で、決して潤沢でない予算と日程の中で最善を尽くした成果です。

クライマックスからラストシーン、エンドロールに至る過程は、最近の日本映画の中で出色といえる昂揚感と感傷と、何より青春期の前向きで爽やかな希望を胸に抱かせる演出に、とても勇気づけられます。

人生は決して爽やかな心地よさに満ちてなどいませんが、それでも、否、それだからこそ、こうしたピュアな想いを胸の中に抱いて生きて行きたいと願わずにいられません。
アクティブに時をかけたヒロイン:真琴が見上げる力強い入道雲は、きっと世代を超えてそう思わせることでしょう。
それを実現した、細田監督の技術の高さとセンス、そして志の高さに敬意を払いたいと思います。

時をかける少女 通常版 [DVD]

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“志の高さ”という点で、もうひとつ引用します。本作の絵コンテに収録された細田監督のインタビューより。

要するに「あしたのジョー」という作品は出崎統さんがコンテを切らなければ、ああいったジョーの人間性は表れなかったかもしれない。出崎さんの作品はカット繋ぎみたいなものがとても心地よいので、それが出崎演出だと思われるかもしれないけど、多分、それは違う気がする。
出崎さんが考えている男の生き方というか、人間に対するある種の見識が、あのフィルムを格好よくしているんだと思うんです。同じ「あしたのジョー」の原作や脚本を映像化しても、全然違うジョーの人間性が生まれる可能性もあるという事だよね。それも大きな意味でトーンだと思う。つまり、世界の見方っていうか、その人のものの見方みたいな事。


いみじくも監督自身が認識を披露しているように、演出の対象とした人物像には、実写であれアニメであれ、演出者の“世界の見方、ものの見方”が否応もなく投影されるということです。
私が、この映画に人間の気持ちの中に絶対必要な前向きな肯定感を感じたとすれば、それは細田監督自身の人間に対する希望や期待の投影だと思うのです。そこに共鳴し、共感するのです。


細田守という映画作家を初めて認識したのは、2003年1月12日に放映されたTV番組「おジャ魔女どれみ どっかーん」第49話「ずっとずっとフレンズ」でした。

(c)東映アニメーション

就学前から小学校中学年くらいをターゲットにしたTVアニメですが、その映像ドラマとしてのクオリティの高さと情感の豊かさには息を呑むものがありました。
当時は(今もですね)、そう話しても理解してくれる人は周囲に殆どいなかったのですが、とても強い印象を覚えていました。その時監督の名前は認識していませんでしたが、本作を観て当時の感覚に誤りはなかったのだと、納得した次第です。


もしも、本作を、アニメーションだからという理由のみでご覧にならなかったとしたら、きっと何らかの損失に値しているだろうと思います。