「戦火の勇気」1996

kaoru11072007-07-08

湾岸戦争版“藪の中”です。
よく描き込まれた脚本。まさに秀作。

組織の中で誠実を貫く男の葛藤ならはまり役のデンゼル・ワシントン、もの凄い減量に挑戦して、苦悩する青年を体当たりで描写したマット・デイモンなど、役者の魅力がしっかりとした物語の骨格を肉付けしていて見応えがあります。
娯楽作ですが立派な風格の映画だと思います。


1992年2月。“砂漠の嵐”作戦の渦中で戦車隊の指揮を執るサーリング中佐(ワシントン)は、夜間戦闘の混乱の中で部下の車体を誤射してしまう。戦後の軍の対応は曖昧で、遺族にも真相を伝られず、サーリングは罪の意識に悶々とする。上官はそんな彼に名誉勲章授与対象者の裏づけ調査を指示する。
調査対象は故ウォールデン大尉(メグ・ライアン)。彼女が指揮した戦闘救急ヘリ部隊の勇敢と犠牲は、誰もが賞賛している。しかし、生き残った隊員の証言を集めるうちにサーリングは疑惑を覚える。彼女は本当に勇敢な上官だったのか? やがて真実が見えてきた時、サーリングは自らの問題にも決着をつけることに・・・。


私は所謂ラブコメ映画をあまり観ませんのでメグ・ライアンとの対面は少ないのですが、本作の彼女には惹かれます。
何せ物語が転がり出した時には既に戦死している設定なので、描写の大半は証言者の回想場面です。つまり、役柄の内面の葛藤を時系列で表現しながら観客を引き付けていく演技を封じられているのです。
にも関わらず、非常に印象的な存在感。彼女が米軍制式銃ベレッタM92を構えた風情の、何とカッコよいことか。
しかも、彼女の役柄は、結婚に失敗し独りで娘を育てているというワーキング・マザーでもあり、それがウォールデンの覚悟と矜持を際立たせてもいます。こんな上官を補佐してみたいと素直に思わせてくれました。


誰の目にもまずまずの感動作として観終われるのでしょうが、さて、と考え込みます。

本作に描かれた“戦場での勇気”を理解することは、現代の日本人には結構難しいことではないでしょうか?
それは、軍隊に身を置くことで何を正義とし何を自分に課さねばならないのか、という倫理観を、日本人の殆どが教えることも学ぶこともしなくなっているからです。
本作の“勇気(COURAGE)”とは、単純な押しの強さや、場の空気に逆らって本音を言う思い切り、を示すのではないからです。


本作の中にこんなシーンがあります。
敵中で包囲され、重傷者を抱え弾薬もわずかとなった部隊の兵士が、“死ぬのは怖い。さっさと投降して逃げよう”と言い出します。
この50年くらいの間に学校教育を受けてきた日本人たる私たちは、そのような意思表明こそを“勇気”と教わってきました。それを否定、批判することは個人の尊厳を蔑ろにする時代錯誤だと。
結果、日本社会の日常では、我が身の損得だけが行動の価値基準となってきたように思います。

しかし、少なくとも米国の軍隊という組織の価値観にそれはあり得ないということが本作を観ればわかります。
また、本作がハリウッドの娯楽映画であるという事実をもって、一般的な米国民の正義感、倫理観においても同様と言うことができると思います。
この彼我の差は、一体何なのでしょうか?


確かに戦争を望むなどありえません。誰でも生命や身体を傷つけることは怖く恐ろしいです。ごく当たり前です。
しかし、それでも人には、その恐怖を乗り越えてでも自分以外の何かのために行動すべきものがあると信じます。特に“軍隊”というポジションでは必須でしょう。本作の描く“勇気”とは、そこまでを含んでいるのです。
それを無視して自己の安寧のみを追及することは、やはり“エゴ”なのです。私はそう思います。

戦後の日本人は、“エゴ”を貫く勇気の方ばかりに価値を置いてきたのではないでしょうか?
滅私奉公や自己犠牲が美徳と言っているのではありません。
エゴを超えても自身を律する正義感や倫理観の方も、我が身と個人の尊厳を守ることと同様に大事ではないかと言うことです。そういう意見自体がタブーである事の異常さを感じます。


そこまで考えたとき、1970年の三島事件の際に三島由紀夫が撒いた“檄文”を思い出しました。

37年前の自決事件は狂気の沙汰との報道でしたし、私の周囲の当時の大人たちは誰一人説明してくれませんでしたので大人になるまでわかっていませんでしたが、この檄文は極めて論理的な名文でした。


あの時三島氏は、自衛隊の存在は憲法違反とした上で、“自らを否定する憲法を守る役割を負う自衛隊という日本の軍隊”という論理矛盾は、日本人の魂の腐敗、道義の退廃の根本原因であるので、憲法改正のために決起せよ、と訴えたのです。

国民の生命財産、歴史と文明を乗せた領土を守る軍隊の、行動原理の根幹にまやかしや誤魔化しを含むことが、日本社会の日常生活の価値基準の腐敗に拡散していくことを憂いたのです。
それはまったくロジカルな意思表明であって、狂気じみた不合理は一点もありません。


「・・・日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の存在を諸君の目に見せてやる。・・・」

私は三島氏に100%同感するものではありませんが、それでも“魂の腐敗、道義の退廃”は明らかに拡大していると思います。


話が脇にそれましたが、本作に描かれた米軍と米国民の“勇気(COURAGE)”を、ある部分で羨ましく思う自分がいました。