「リトル・ミス・サンシャイン」2006

kaoru11072007-08-01

香港のオリジナルをリメイクした「ディパーテッド」でなく、本作がアカデミー作品賞を獲っていたらハリウッドの流れも少し変わったかもしれません。低予算ながら非常に知的で時代性に富み、観るものに等身大の感動を与える佳作。小粒ながら愛すべき光を放つ映画です。
酷く不幸な状態とはいえないが、各自が何となくうまく行かない事情や状況やストレスを抱えたフーヴァー一家が、末娘の切望するミスコンに参加させるべく一家で長距離ドライブをする道中記。その過程とミスコン会場で彼らが遭遇する大小様々な出来事が、彼らの問題を解消させたり拗れさせたりしながら、家族の危機を乗り越えていく物語です。
そんな構造を映画をどこかで観た記憶がありました。山田洋次監督の「家族」1970です。もっとも「家族」における家族の旅は全生活を賭けての九州から北海道への移動でありその背景や深刻度も異なるのですが、観客が臨場感を持って見つめる被写体の構図と構造は極めて似ていると思います。道中に死を抱えることも同じですし。
それはさておき、私の頭に浮かんだのは“自己実現の罠”という言葉でした。
“勝ち馬・負け犬”をキーワードに成功法を売ってひと山当てたいと願う父。何となく理想と異なる家族を抱え手抜き料理と喫煙がやめられない母。家に住みながら家族を嫌悪し唯我独尊で夢を追う兄。破天荒で破廉恥な行状を誇りにすら思っている社会良識の範囲を少しはみ出している祖父。文学者として自負を持ちながら同性愛の失恋で失意の底にある叔父。そしてミスコンに憧れる幼い末娘のオリーブは、可愛いけれどちょっと太め。
そこそこの経済力はあるし、わかりやすい不幸は抱えていない。けれど誰もが頷きあこがれるようなわかりやすい幸せは持っていない。皆が、本当の自分の理想は今の自分にはない、と悶々としています。そんな家族がロングドライブの過程に起きる様々な事件を通して、彼らが自らの不幸を少しずつ消化するという筋立て。但し万事ハッピーエンド、なんて展開はなし。ラストに至っても、彼らの抱えた問題状況はやはり続いているのです。それでも旅のビフォー・アフターで、彼らの内面にある種の変化が生じていると、観客は確信して劇場を後にします。そのコミカルで苦味の効いた味わいの知的なこと。

現在の自由主義先進国社会は、過去に経験したいくつかの社会システムの問題をまがりなりにも克服してきました。例えば身分による縛りといった封建的な不自由さは小さくなり、経済的貧困の厳しさを脱している限り、私たちは自由に理想を追求できます、少なくとも建前上は。そんな世の中で私たちは新しい苦しみを感じています。それが“自己実現”と現実とのギャップです。
ひとは誰でも自らの理想像を思い描きます。しかし、現実にはいろんな状況や事情があって、そうそうそれは達成できません。そういう状態である時間の方が、人生の圧倒的に長い時間を占めているのですが、最近、その現実認識が変わり始めています。つまり“理想の自己実現”を手に入れることは当然だし、それは必ず実現するはずであり、できないのは問題がある的なメッセージで、いつの間にか世界は満ち溢れてしまいました。
例えば、日本でも僅か数十年前まで、学生の就職はまず社会で食えるようになる、という程度の取り組みでした。就活する時点の状況と条件の中、まずは飛び込んでみた職業の中で自らを育んでいきました。もちろん志望先や希望職種へのこだわりはあれど、就職はスタートラインだったはず。しかし今日気がつけば、就職とは理想のキャリアという自己実現に向かう“あなただけの貴重なステップ”となっています。理想のキャリアを手に入れるという人生の至高の目的へのプロセスを、あなたはちゃんと歩いていますか? という訳です。まずは何らかの職に就けば展望が開けるのに、未熟な理想のキャリア願望にこだわるあまり目の前の機会を逃して挫折感に支配されてしまう…。そんな若い世代が増えています。
若い世代から中高年まで、日本中がそのプレッシャーに日々追われているのではないでしょうか? 本作の家族たちを観て私たちが共感できるのは、そうした自己実現未達という微妙な不幸感ではないでしょうか。劇中頻繁に語られる「勝ち馬・負け犬」という台詞はまさに象徴的です。そして、後半のクライマックスを見守りながら思うはずです。“人間の人生って本当に自己実現することが唯一の幸福なのか?”と。
食べることで精一杯の時には衣食足りるだけで幸福だったはず。一緒に居たいと思える人の傍に居れるだけでも幸せだったはず。でも人の欲望と欲求はとどまることはない。やがて自己実現というあやふやなものを手に入れてないと、焦りストレスを抱えて生きている私たち。フーヴァー一家は私のことであり、私は彼らであるのです。
馬鹿馬鹿しく醜悪なミスコン会場で破れかぶれにステップを踏み、オンボロバスを手押しで発進させながら飛び乗っていくフーヴァー一家の姿に、何故私たちは共感しカタルシスを覚えるのか? きっとその瞬間は、彼らが自己実現なんかどうでもよくなっている瞬間だからではないでしょうか。
精神科医香山リカ氏が、高校大学での「キャリア教育」は就労後のメンタルダメージの元凶のひとつなので即刻止めて欲しい、と発言していましたが、私も同感です。現代に生きる私たちは、気づかぬうちにそうした“自己実現の罠”に陥っているのではないでしょうか? 本作の家族の愛すべき悪戦苦闘を見つめながら、そんなことはどうでもいいんじゃないか、と思い始めています。