「七人の侍」1954

kaoru11072007-08-04

日本映画史上、本作ほどあらゆる属性の人々に評価された作品はないでしょう。それほどの作品、しかもあらゆる評価評論が語りつくされた名作を採り上げるのはあまりに敷居が高いのですが、敢えて記してみます。

昭和29年は、日本映画界のひとつのピークの時期だったのだろうと思います。黒澤明が本作を公開し、木下恵介が「女の園」と「二十四の瞳」で圧倒的な評価を得、円谷英二本多猪四郎が「ゴジラ」を世に放つ。凄い年です。
中でもこの「七人の侍」は、当時としても常識外れのコストとエネルギーを費やして制作され、途中何度も完成が危ぶまれながら、黒澤監督本人のみならず関係者の驚異的な粘りと才能で完成に至った超大作でした。

いい加減な時代考証と様式美にとらわれた旧弊を排して徹底して本格的な時代劇を作る。黒澤の企画意図を受けた稀代の名脚本家橋本忍が綿密な取材を重ね様々なプランを描く。しかし明確なドラマ像が見えてこない。二人が煮詰まった時、プロデューサー本木荘二郎との会話の中に聞いた“戦国時代は治安が悪く、盗賊や山賊を恐れる百姓が侍を雇うこともあった”という言葉で一気にブレイクスルーする。
橋本「百姓が雇う侍の数は何人にします?」
黒澤「三、四人は少な過ぎる。五、六人から七、八人・・・、七人くらいだな」
橋本「じゃ、侍は七人ですね」
黒澤「そう、七人の侍だ!」
かくて「個性豊かな浪々の侍たちが、貧しい山村の農民達に雇われ、村を蹂躙する野武士集団と闘う」という単純明快で力感溢れるプロットが誕生した。

ある山間の貧しい小さな集落の農民たちは収穫時に略奪と蹂躙に襲いくるだろう野武士集団の暴力に怯えきっていた。弱り果てた彼らは窮余の策として食い詰めた侍を雇って村を防衛することを決意する。報酬はただ白い米の飯を好きなだけ与えるというだけ。命を懸けながら名誉も金も期待できない仕事ゆえ侍の採用は難航するが、紆余曲折を経て経歴も腕前もばらばらな、寄せ集めながら個性的な七人の侍が揃う。
戦略に長けた最年長リーダー:勘兵衛(志村喬
安定感ある次席リーダー格:五郎兵衛(稲葉義男)
気働きに富む勘兵衛の忠実な部下:七郎次(加東大介
飄々としたムードメーカー:平八(千秋実
無口で孤独な凄腕の剣士:久蔵(宮口精二
英雄に憧れる未熟で純粋な若者:勝四郎(木村功
粗暴で破天荒なはみ出し者:菊千代(三船敏郎
様々な困難を乗り越え村の防衛準備を行う七人。やがて収穫期、予想通り野武士集団の襲撃が始まった。村の存亡と自らの存在を賭けた侍たちの戦いが始る・・・。

完璧なプロットに深みと面白さを兼ね備えたキャラクター設定が加わり、日本映画黄金期の才能と技術がふんだんに注ぎ込まれた3時間半。知的な精神性も、手に汗握るスリリングなアクションも、初恋の切なさも、社会問題の暗喩も、良質な娯楽映画の見応えが総て備わった空前絶後の時代劇。当時黒澤明は「ステーキに蒲焼を乗せてカレーをかけたような見応えの作品を作る」と宣言しています。私は未だ劇場で観ることができていませんが、死ぬまでに叶えたいと願っています。

さて、こんな語りつくされた名作に言及しようと思ったのは、改めて“働くこと・仕事をすること”という人間の重要な営みが、映画の中にどのように描かれてきたのかを考えてみたいという問題意識からです。

私たちにとって労働とはどんな意味を持っているのでしょうか?
例えば会社員である私自身は、企業の構成員として事業成長に何らかの形で貢献する仕事を担い、その報酬で経済生活を維持しています。貴族皇族の類でも資産家資本家の類でもない社会人が、自立して食べていくためには労働して報酬を得る必要があるのです。だからまず最低限、お金がいただける仕事をさせてもらえるならありがたい、が基調です。社会全体が貧しく混乱している状況では、それが実現するだけで大したものだとなります。

その社会状況の中で、自らが生活するにまずまず標準的な報酬を得られたとして、人はその次のステップに目を向けることになります。所謂“働き甲斐”というものです。自分は何を求めて働くのか? 何を目指して働くのか? より高い報酬なのか? 栄誉と名誉なのか? 自分の夢の実現なのか? 思想信条の貫徹なのか? まさに十人十色、百人百様の価値観があるのだと思います。

映画が語る働くということ

映画が語る働くということ

本作の侍たちは、何を思って貧農たちのオファーに応えて野武士との戦いに赴いたのでしょう? 
あくまでフィクション、絵空事の設定ではありますが、この侍たちが日本のみならず世界各国の映画ファンのヒーロー像として受け入れられた事実は、私たちの仕事観、労働観のある部分を確実に刺激して止まないからではないかと思っています。

農民の願いを最初に聞かされた勘兵衛は、もう若くない胡麻塩頭を撫でながら一度は「できぬ相談じゃな」と断っています。社会通念上もっともな話です。いかに浪人の身とはいえ報酬は白い米の飯だけ。多勢に無勢の無謀な戦への参画です。野武士の圧倒的戦力の前に命の保証はありません。仮に勝利したとしても栄誉もその後の仕官の道が開ける訳でもありません。しかもその村の農民とは縁もゆかりもないのです。
しかし勘兵衛は、その場の状況で引き受けることを決意します。その逡巡は克明に描かれる訳ではありませんが、名優志村喬の無言の演技は、その意思決定のドラマをきちんと描写しています。山盛りのごはん茶碗を差し上げて、勘兵衛は農民に告げます。「この飯、おろそかには食わぬぞ」。

人は確かに経済的報酬を得るために働きますが、私たちの精神の奥底には、精神的な何かのために働くことの価値がしっかりとセットされているのでしょう。それは現実には容易にできることではありませんが、勘兵衛のように自らを賭して仕事をすることを敬い憧れる心情はきっと誰にもあるはずです。

実は本作のプロットの肝である、“貧農に雇われる侍の動機”はこの勘兵衛の決意のみにかかっています。何故なら残り6人の侍たちは勘兵衛の力量と人格に惹かれて付いて行くのですから。(やや例外なのが平八ですが、平八を誘う五郎兵衛は、勘兵衛に似た存在感なので含めても妥当でしょう)
「わしはどちらかと言えばお主に惹かれて付いていくのじゃからな」という五郎兵衛の台詞に代表される、7人が集まっていく本作前半のエピソードの連なりは、その後の数々の映画の教科書にもなっています。

つまり、私たちの働くモティベーションにはもうひとつ、魅力的なリーダーや仲間と共に何かをなしたいという要素があるのです。仕事をするという経済活動は個人的な営みに過ぎませんが、この社会では他人と共に働く場面が非常に多い訳で、仕事を通して様々な他者と影響を与え合いたいという動機は大きいのだと思います。したがって、職場は個人主義であっては面白くないのです。

そして、山村に着いた侍たちはそれぞれの知識経験スキルを活かして活動します。ある者は軍略の知恵を用いて村の防衛計画を立案します。ある者は農民達に武術指導を行います。またある者は自分達と村人の調和と協調を図ります。そして実際の戦闘において各自の侍としてスキルを全開にするのです。
加えて、まだ未熟な若侍たちは、理想を見出したリーダーや先輩の言動から学び、自らのスキルの向上に努めます。所謂能力開発、自己啓発です。

結局、前述の内容も含め、本作の主人公達には、私たちが“働く”行為に求める価値観の多くの部分の投影がなされており、そこへの共感や共鳴、羨望があるからこそ、「七人の侍」をして世界に誇れる至宝の名作たらしめているのではないでしょうか。

私たちはサラリーマンといえど、十把一絡げに語られるような労働マシンではありません。ひとりひとり、自分の意思と個性を有したそれぞれの人生の主人公です。その個人が集まって職場は構成され、共に仕事を担うチームが構成されるのです。そこでどんな仕事ぶりがあり、働き甲斐が見出され、成果に至るプロセスがあるかについては、まさに一人一人個別具体的な世界が内包されているはずです。

大小様々な沢山の業務に埋没し忙しくしているばかりの若い人にとって、こんな状態では“自分らしい仕事”などできないのではないか、と思うこともあると思います。未熟な時期は仕事経験の絶対量が乏しいので当然です。最初は誰でも手順を学び、先人の経験を手本に型を覚え、担当する仕事遂行の見通しを立てられるようになるまでは、誰かを真似て働くしか方法はありません。その時間が長い人もいれば短い人もいるのです。
しかし、その段階を経た上で、そのひとらしい仕事ぶりというものは必ず見えてきます。何故なら私たちは機械ではなく、ひとりひとり異なる精神性や嗜好や癖を有した独立した個人だからです。だからこそ、優れたリーダーや先輩、同僚の個性溢れる仕事に憧れますし、やがて自らの仕事のあり方を誇ることができるようになるのです。それは、職人や芸術家であれ、企業に勤めるサラリーマンであれ、働く個人において共通の法則だと思います。

七人の侍 [DVD]

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誤解して欲しくないのは、誰がやっても同じような仕事を土台に、その上位に位置する個性的な仕事がある訳ではないということです。そんな2層構造などありません。その人らしい仕事、その人でなければできない仕事、とは、どんな些細な雑務の中にも存在しているはず。少なくとも私はそう信じて働いています。
例えば電話やメールの受け答えひとつにも、伝言メモの残し方にも、その人らしさは滲み出ます。馬鹿馬鹿しい職場役割の代名詞である“お茶汲み・コピー取り”など、最も個性的な仕事だったりします。
そうした日常の所作に現れる個性の同一線上に、その人ならではの目覚ましい価値創造は存在するのだと思います。決して、無個性な仕事と個性的な仕事が分裂して存在している訳ではなく、あらゆる具体的な細部に個人の魂は宿るということです。

ですから本作の七人の侍は、どの場面をとってもキャラクターの混同がありません。七人がそれぞれ、その人ならではの個性的な言動行動でドラマを貫いています。観客にはその納得感があるからこそ、炸裂する邦画史上類をみない壮絶なアクションシーンに感動を覚えるのです。仕事上の個性の発揮とはそういうものだと思います。

過去10年以上、日本企業の多くは成果主義を導入し、個々人の仕事の単年度成果に基づいて賃金格差を精緻にデザインする方法論がトレンドになっていました。しかし、私たちは本当に報酬のアップダウンのみを働くエンジンとしているのでしょうか? 
七人の侍」は所詮娯楽時代劇という架空の物語でしかありませんが、そういう仕事と自分の関係を考える示唆に富んでいるとも思っているのです。未見の方には是非レンタルをお薦めします。

複眼の映像 私と黒澤明

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