「時をかける少女」1983

私がこの1年絶賛を惜しまない細田守版2006年作品に先立つこと23年。この年、この筒井康隆の傑作ジュヴナイルの実写映画化の決定版が、大林宣彦の手によってリリースされました。
「転校生」1982、「さびしんぼう」1985と共に“尾道3部作”を構成する本作は、原田知世の銀幕デビューを飾るアイドル映画でもありますが、単純なジャンル分けを超越した、極めて印象深い珠玉の1本になっています。

大林宣彦が本作で行った革新のひとつは、SF物語という未来感覚を、懐かしい昭和前期の風景と、極めて個人的なひそやかで切ない想いの中に閉じ込めたこと。
本作以前にもこの原作は映像化されていました。その代表作は1972年にNHK少年ドラマシリーズ第一弾として放映された「タイムトラベラー」であり、シルバーを基調に未来的なイメージに彩られていました。それは60年代〜70年代にはごく当たり前の映像世界でしたが、それをまったく異なるビジュアルで描き出したのです。

本作を名作たらしめている要素は様々にありますが、やはりその映像自体が与える強烈な印象でしょう。
誤解しないでください。決してショッキングな場面や強烈な画調という意味ではありません。どちらかというと抑制されたおとなしい映像演出で一貫しながら、その空気感や叙情性が見るものに強く訴求するということです。

記号論的な見方は好きではありませんが、タイムリープを覚えたことによる自分の心と身体の変化に戸惑うヒロイン:芳山和子の心情は、常におぼろげな湯気や煙の漂いで描かれています。
消えた焚き火からの白い煙、頬杖をついたテーブルの上のティーカップからの湯気、醤油屋の釜から幅広く立ち上る湯気。田舎町の古めかしい景色にそれらが常に漂う・・・。

10代の頃の私は、学校が休みの日曜の午前中を何となく微熱を感じながら、平日と異なる景色を眺めていた時期がありました。自分で勝手に“日曜日の微熱”と表現していましたが、本作を観た時に、そんな曖昧な気分を第三者に見つけられて再現されたような、不思議な感動と感傷を覚えたのでした。そんな極めて個人的な映画体験をさせてくれた映画なのです。

そして、“タイムリープ”それ自体の映像表現の圧巻。こればかりは2006年版のアニメでも敵わない見事な出来栄えでした。
尾道(竹原かもしれない)の風景を、モータードライブのスチルカメラで極めてアナログに切り取り続けた膨大な静止画を連続描写することで紛れもない時間の超越を表現してくれています。
そのビジュアルインパクトと、そこから観る者に訴えてくる新鮮で懐かしい叙情。

時をかける少女 [DVD]

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もう24年も昔になってしまった本作のビジュアルを、私が信頼する20歳そこそこの若き鑑賞者は以下のようにコメントしてくれました。
「月並みな表現ですけど純粋に綺麗でした。現在の技術でなら容易にもっと凝った表現が可能でしょうが、それでは何とも思わないかもしれない。当時でも素朴といえる手法で撮影されたからこそのインパクトだったのではないでしょうか。この時代にこういう映像手法を使うなんて凄いですね」

私も彼女も、本作をほぼ同じ歳で体験した訳です。世代も時代も異なれど、同じようなビジュアルインパクトを覚えた訳です。これこそ本作の人気の根強さを示すものだと思います。

そして、2006年版で未来に向かって前進する希望の時間として描かれた“時”は、本作において死を底流に置いた静かな停滞の時間でした。それが、全編に漂う青春の憂いと重なり、重層的な文学性を漂わせてくれたと思います。

しかし、本作の豊かさは、そうして青春の絶望と共に閉じた幕が、快活で幸福感に満ちたエンドロールのカーテンコールに一転するラストで見事に花開きます。その見事な展開の素晴らしさ。
アイドル原田知世は、物語中一貫してロングショットに収められていますが、最後の最後でカメラ目線でアップとなり、本作最高の笑顔をフィルムに焼き付けます。このワンショットで、彼女は永遠の生命を得たのです(独断ですね)。

筒井康隆同様に、「時をかける少女」は1983年版と2006年版の2作をもって映画化の極めつけと認めます。

※2006年版の記事はこちら。
http://d.hatena.ne.jp/kaoru1107/20070623
http://d.hatena.ne.jp/kaoru1107/20070106
http://d.hatena.ne.jp/kaoru1107/20060728