「素晴らしき哉、人生!」1946

kaoru11072007-09-09

名匠フランク・キャプラが第二次大戦直後に撮ったハート・ウォーミングな名作。“甘すぎる”という批判は重々承知の上で、お気に入りのクラシックに据えています。

確かに飛び切りのハッピー・エンドが印象に残る映画なので“キャプラ・コーン”と呼ばれる甘口人情ドラマの典型と見られてますが、そこに至るまでの人間描写は結構辛辣で、決して甘っちょろいご都合主義物語ではありません。
ジェームス・スチュアートはどんな役を演じてもスチュアートなのですが、本作ではその誠実朴訥なキャラクターが本当に上手くはまっていて、ちょっとあざといくらいのクライマックスの展開が嫌味なく、説得力すら持ってせまってくるのです。映画の黄金時代らしい魅力に満ちています。

それとこの映画、今話題の“サブプライムローン”の原型が描かれているのも興味深いです。米国都市部における低所得者層の住宅取得資金調達のあり方は、こんな風に形成されてきたのだと知ることで、最近の世界的経済影響の根源に思いを馳せることができるという副産物もあります。


小さな町で低所得者向けの小さな銀行を経営するジョージ(J・スチュアート)は、小さい頃の事故で片方の聴力を失ったり、父親の急死など、タイミングの悪い不運が重なり、町を出て立身出世するという自分の夢を犠牲にして生きてきた。それでも、町の貧しい人たちのために誠心誠意仕事を続けていること、幼なじみで心根の優しいメリー(ドナ・リード)と所帯を持てたことは、彼の人生を決して暗いものにはしていなかった。しかし、決して余裕がある経営と暮らしである訳はなく、やがてある年のクリスマスイブ、些細な過失で大金を失ったジョージは銀行経営に行き詰まり、人生に絶望せざるを得なくなってしまう。
そんな彼のもとに二級天使のクラレンスが派遣される。ジョージの誠実な人生を見かねた神の使いなのだ。しかし、ジョージは容易に絶望の淵を脱却できない。そこでクラレンスは一計を案じる。人生に絶望するのならば、ジョージの人生が“最初っからなかった世界”のクリスマスイブを見せてあげようというのだ。その世界とは一体・・・?


映画は、ジョージの若き日から家庭を築いた中年の日々までの不運の連続と、それでも周囲の人々との間で築いていく信頼と愛情の日々を丁寧に重ねていきます。それは最初、やや冗長に思えるかもしれませんが、その丁寧な描写がすべて、クライマックスからラストシーンにかけての展開の伏線になっているという見事なつくり。
ウェルメイドな構成とは、まさにこういうものを指すのだと思います。映画を観る歓びって、こういう展開に酔わされることを言います。その教科書のようなドラマだと思います。


そして、よきアメリカの良妻賢母(もう死語でしょうか?)の典型を演じて美しいドナ・リードの存在感。彼女が毎日を支えていたのだという映画的な記憶があるからこそ、ラストの涙は滲むにとどまらず滂沱となってしまいます。季節外れではありますが、こんなイブは無宗教な日本人だって経験したいと思います。

自分の運命に対して真摯に向き合い、不運すら飲み込んで日々刻々と変化する状況と課題に対して誠実に努力することを怠らない。周囲の人々、自分の大事な人たちに対して、誠意を持って接し続けること。
結局のところ、それが己の人生を最も豊かなものにするし、周囲の人間の幸福を増幅することになるのだという善き生き方の自覚。この映画はそれを大人の御伽噺としてスクリーンに焼き付けます。“友ある者は敗北者ではない”という字幕の持つ意味合いを、大事にしたいと素直に思えます。

“見る人は見ている”“お天道様は見ていてくれる”といった道徳観が、日本社会で希薄化したのはいつ頃からでしょうか? 成果主義の名の下に、向こう受けする目立つ仕事をするヤツが光を浴びることが増えています。自己表現と自己主張の名の下に、黙って陰ながら周囲を支える仕事をする“縁の下の力持ち”は損な役回りであるという認識が、日本人の常識となりつつあります。
でも、そんな世の中はつまらないし、良い仕事は必ずしも言語化して説明できるものでもないでしょう。本作が描き出した人間の誠実さの賛歌が、ちゃんと普遍的な価値を保てる世の中でありたいと切実に思います。

本作は、お世話になっているブログ友だちCarolitaさんのお気に入り作だったことで観るきっかけを得させていただきました。彼女がいなければ、こんな珠玉作を観ないまま人生を終えたかもしれません。とっても感謝しています。
↓Carolitaさんのブログ
http://carolitacafe.blog9.fc2.com/