「幸福」1981&1980.7〜9

学生時代のほぼ同時期に観た二つの「幸福」。
1本は、名匠市川崑監督が81年に公開したキュートな刑事ドラマの佳作。もう1本は80年の夏にTBS系で放送された高品質の連続TVドラマ。当時どちらも興味深く観たのですが、こうして年齢を重ねて振り返ると、市井の生活の中の感情の機微をつかみとる作家の眼の確かさを思い知らされる見事な作品だったと思えます。

まず市川崑の「幸福」。
原作は「天国と地獄」同様にエド・マクべインの“87分署”もの「クレアが死んでいる」。東京都内の小さな書店で日中起きた発砲射殺事件の捜査を担当することになった三人の刑事が主人公。確かに殺人事件の捜査もののストーリーなのですが、この映画が狙うのは劇的な追跡でも謎解きの面白さでもありません。現代日本に生きる市井の人々の抱える事情や不合理、そんなやりきれなさを抱えながらも希望を抱いて生きていく誠実な姿勢と希望を描き出そうとするものでした。その描写には過剰もなく、そして過少もありません。

主人公たる三人の刑事。若手の北を演ずる永島敏行。当時は大抵の映画に出てたような気がします。死亡した3人の被害者のひとりが北刑事の婚約者、福祉の仕事に携わる女子学生の庭子(中原理恵)でした。当然彼の捜査は復讐心に根ざすのですが、やがて自分が知らなかった恋人の日常と家庭事情そして仕事上の懊悩に接するうちに複雑な想いを抱きながら成長していきます。
もうひとりの主人公、村上刑事。北よりひと世代上の30代を演ずるは水谷豊。ごく若い頃から売れっ子でしたが、78〜79年にNTVの「熱中時代」で一般向けに大ブレイクした熱気がおさまった頃の出演。村上は忙しさにかまけているうちに妻に家出され、8歳の長女と6歳の長男を抱えたアパート暮らしに汲々としていました。長女に家事の負担を任せてることに気もとがめますが、仕事には行かねばなりません。そんな若手と中堅の二人を、ベテランの野呂刑事(谷啓)がつかず離れずアドバイスしながら捜査が進みます。

刑事たちの捜査は被害者の生活の事情をきめ細かく辿っていきながら、それぞれにやりきれない事情に行き着いてはため息をつくような描写が続きます。容疑の可能性をひとつひとつ潰しながら、彼らは犯行の真相に近づいていきますが、丁寧な脚本とキャメラと演出は、常に市民生活の日常の目線から離れようとはしません。容疑者、関係者、捜査員のそれぞれの抱えた生活の重さを絶対に忘れない描写を徹底します。
通常の刑事ものでは、それらを思い切って切り離すのがドラマをダイナミックに飛翔させることになるのですが、本作の要諦は敢えてそれをしないことなのです。ラスト、亡き恋人の父親と複雑な思いで向き合う北や、二人の子どもを抱き寄せて妻を迎えにいこうと告げる村上の姿は、本編中丁寧に紡ぎ出してきた心情の連鎖があるからこそ、しみじみと心に訴えてきます。まさに、私たちの“幸福”とは何かを噛みしめて欲しいという作者の思いが結実します。
そんな生々しい人間模様を、それでも美しく描写するための工夫として市川監督が採用したのが“銀残し”。フィルムの現像処理段階で通常は落としてしまう銀を敢えて残し、画面全体の色調の彩度を抑えシブい印象で統一します。これは同監督の名作「おとうと」1960で名撮影監督宮川一夫が完成させた手法でした。そんなきめ細やかな技法と芸達者な俳優陣の円熟の演技が、シャープで愛すべき引き締まった映画に仕上げていたと思います。多彩多作の市川崑のフィルモグラフィにおいて、確実に後期の代表傑作といえる作品でした。
にも関わらず、この「幸福」、今日までTV放映もビデオ化もDVD化もされていません。おそらく権利関係で拗れているのではないかと思います。これは本当に残念です。


さて、もうひとつの「幸福」。この連続ドラマのシナリオは向田邦子のオリジナル。
向田邦子は故久世光彦氏や和田勉氏など当時随一の名ディレクター達と組んで「寺内貫太郎一家」といった娯楽作から「阿修羅のごとく」「あ・うん」といったハイクオリティドラマをヒットさせ、70年代終盤から80年にかけて書く作品がことごとく名作だったドラマライター。この「幸福」が放送された80年には短編集「思い出トランプ」で直木賞を受賞、作家としてトップピークにありました。今後一体どこまで行くのかと思われていた矢先の81年に飛行機事故。天才は夭逝するとのジンクスが本当になってしまいました。

この連続ドラマ「幸福」は、幸いDVDがリリースされています。

幸福 [DVD]

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大学受験の挫折以来、何となく無気力気味に生きている数夫(竹脇無我)は、歳の離れた妹踏子(岸本加世子)とアパート暮らしをしながら鉄工所勤めをしている。彼は以前から付き合いのあった素子(中田喜子)との仲を深めていくのだが、素子の姉・組子(岸惠子)が近所に小料理屋を出したことで、微妙な三角関係が生じていく。何故なら組子はエリート会社員である数夫の兄・太一郎(山崎努)の元恋人であり、ある時数夫とも関係を持ったことがあるからだ。やがて数夫をめぐる組子・素子姉妹の三角形に、組子をめぐる数夫と太一郎の三角形が重なり出す。そんなもう若いとはいえない男女の日常の秘めた恋情を、踏子が見つめる視点で丁寧に丁寧に描き出していく物語。

「素顔の幸福は、シミもあれば涙の痕もあります」
毎回のアバンタイトルの岸本加世子のナレーションの一節です。ストーリーの要約をしようとしましたが、粗筋を追うことにあまり意味はありません。このドラマは、一般的な意味で幸福とは言いがたい市井の人々の胸の中にある恋の炎や誠実さ、不合理な思いの涙や焦り、やりきれない日常の中でも失われない仄かな希望といったものを、日常の生理に根ざした描写と台詞であぶりだすのです。
「夏場にアイロンをかけていると膝の裏に汗をかくのよね」
愛しい男を挟んで向き合う姉妹の会話に、好きだの愛だのといった言葉は皆無です。それなのに彼女たちの人生の断片の切ない想いが伝わってきます。そんな珠玉のような台詞やショットが数限りなく散りばめなれていました。二人の女に想いを寄せられる竹脇無我演ずる数夫のキャラも、およそ風采があがらない、優柔不断で格別他人に誇るもののない男です。でも、何故か周囲の人間たちが彼を大事に想ってしまう、そんな人間描写が積み重ねられます。確か、姉妹のボケ始めた老父を演じた笠智衆がやたらと指相撲か腕相撲をせがんでくるのに、律儀に応じ続ける竹脇無我のシーンがひどく記憶に残っています。アン・マレーの深く染み入るような主題歌も素敵で、振り返ると大好きな連続ドラマの5本の指に入っています。もう、こんな良質の文学をTVで味わうことはないのでしょう。

70年代後半から80年代初めの時期、日本のTVドラマは明らかに日本映画を質的に凌駕していました。それを支えていた大きな柱の一本が向田邦子だったという認識に異論のある方は少ないと思います。彼女のドラマ世界は徹底して生理にこだわっています。理屈ではなく自分の感覚、生理から見つめる人生の真実を抉り出すことにかけて、あの頃の向田邦子の右に出るドラマ作家はいなかったと思います。
あれから時は過ぎ、TVドラマと大部分の邦画は仲良く手をつないで年少者向けのマーケティングごっこに夢中のようです。依怙地と言われるかもしれませんが、あの頃の名作群をリアルタイムで体感した身としては、今後のTVドラマは死ぬまで観なくても悔いることはありません。あの頃のDVDさえ手元にあれば。


年齢も経験も活躍のフィールドもまったく異なった市川崑向田邦子、その二人がほぼ同時期に描いたそれぞれの「幸福」。大事な愛すべきコンテンツです。