「あしたのジョー2」1981

私たちの世代の男たちの多くにとって「あしたのジョー」という物語は、記憶の中で独特の位置を占めていると思います。
最初に刊行されていた講談社コミックス全20巻は幾度読み返したのか、ちょっと数え切れません。そういう人は決して珍しくないと思っています。きっと私だけではないはず。

1968年から1973年にかけて、原作:高森朝雄梶原一騎)&漫画:ちばてつやの手で少年マガジンに連載されたこの物語は、当時特異な熱気を孕んだ人気作となりました。当然TVアニメ化もされましたが、最初のアニメ化はマンガの連載に放映が追いついてしまったため原作にない最終回で強制終了していました。その後1979年、TV版の前半部分、所謂“力石編”を再編集した劇場用映画がヒット(1979年)。その後の物語が改めてTVアニメ化されるに至りました。1980年〜1981年に放映された新たなTV版を基に新作画もまじえて制作されたのが、この劇場版「あしたのジョー2」でした。監督はいずれも出崎統


東京山谷と思われる貧しいドヤ街にふらりと現れた少年矢吹ジョーは、近所の子どもたちのリーダー格となって小さな悪事を重ねて暴れまわるうちに少年院に収監されることになる。孤独な暴れん坊のジョーに天性のボクサー資質に惚れ込んだのが、隻眼で酒びたりのボクサーくずれの丹下段平だった。筋金入りのワルが集まる特等少年院でも傍若無人に振舞っていたジョーだったが、ひとりの大柄な少年に完膚なきまでに叩きのめされる。
ジョーに生まれて初めての屈辱を味合わせたその少年は力石徹。プロの4回戦ボクサーだった。それを知ったジョーは、かつて鼻で笑って拒否していた段平のボクサー指南を受け入れて、塀の中での自己流ボクシング修行に没入する。ただ力石という男にリベンジしたい一心で。やがて少年院内で行われたボクシング大会で、二人は壮絶な両者ノックアウト試合を実現する。直後に力石は出所し、後援者である白木財閥をバックにプロでの再起の道を歩み出す。
力石の後を追うように、出所後のジョーも段平の作ったボロジムを根城にプロの道を目指す。世間の常識を超えたやり方でプロ資格を得たジョーは紆余曲折を経て力石との再戦を現実のものにする。ただ力石はフェザー級、ジョーはバンタムと二人には明らかな体格差・階級差の壁があった。しかし、常識外れの減量でその壁を越えてきたのは力石だった。バンタムのリングで再び闘った二人の試合は、鮮烈なノックアウトで力石が勝利する。塀の中の因縁に決着を着けた満足感がジョーを満たした瞬間、リング上で力石は倒れ絶命する・・・。

・・・ここまでが劇場版「あしたのジョー」1979でまとめられた物語。ここでジョーの物語はいったん完結しています。

その後に続く物語が「あしたのジョー2」。力石という強烈な存在を失ってしまったジョーが、その後の人生をどう生きていくのか、という非常に焦点の絞りにくい物語でした。

真のライバルを失って屍のようなボクサーに堕していたジョーを覚醒させたベネズエラの戦慄:カーロス・リベラ。バンタムの体格を越えつつあったジョーに力石を彷彿させる減量苦を体験させた朝鮮戦争孤児あがりの精密機械:金竜飛。そして、ジョーの生き様とは正反対の常識人でありながら超越的な技量を誇るパーフェクト・チャンピオン:ホセ・メンドーサ
彼らとの出会いと葛藤、その中でボクシングのみに自らのすべてを費やし燃え尽きていくジョー。その行動言動のすべてが妖しくも美しい非常識な情念に貫かれ、読者自身が絶対に真似のし得ない、しかし憧れて止まない精神性に満ちていました。
劇場版「あしたのジョー2」は、その長い物語を極端に刈り込んでダイジェストしていますので、一見さんには観ていられないものだと思います。しかし、私のように原作を何度も反芻していた者にとっては、まさに動く名場面集。スタイリッシュで編集センスが光る出崎演出で、唸らされるような名場面を堪能できました。


一般的にジョーの物語は、力石との死闘から彼の死に至るまでの前半が有名ですしファンも多いです。確かに完全なクライマックスが構成されていますし、わかりやすくもあります。この前半こそが物語の生命線であるのは間違いないでしょう。しかし私には、力石の死語、後半の物語の方が強く心に刻まれています。理屈ではなく、その強い印象が根強く残っているのです。

こう書いていて再認識しますが、この物語はボクシングというストイックなスポーツをモチーフに、男たちのラブストーリーを描いたものなのだと思います。ジョーと力石とは、性を超越した魂の純愛関係なのでしょう。そういう観念からしか、この主人公たちの行動動機は説明がつきません。
そう考えると、私の好きな後半の物語は、最愛の伴侶を失ってなお生き続けなければならなかった人間の彷徨いの物語と定義することができます。嗚呼、そうだったのか、と理解できます。


何だか話が収集つかなくなってしまいました。少し疲れていますのでご勘弁ください。

ただ、最後に蛇足です。
最近、関西弁のなんとか兄弟とその父親、および提灯持ちのマスメディアの愚行で、久々にプロボクシングが話題になっています。彼らの馬鹿馬鹿しい行状は筆が腐るので記す積りはありません。メディアの舞台裏で判断や決済を担っていた人々は、その世代から考えて多くがこのジョーの物語をリアルタイムで体験していたものと思います。その自分の記憶に対して恥ずかしい行為はしたくないもの、と思います。
ただひとつの救いは、どのメディアの軽佻浮薄な修飾語の中に、“○○のジョー”という例えがひとつもなかったという事実です。さすがにそれだけは誰もできなかったのでしょう。ジョーの物語の聖域だけは、今回の騒動でも守られた事実が、私を安堵させました。