「スミス都へ行く」1939

kaoru11072008-01-14


原題は“Mr.Smith Gose to Washington”。直訳タイトルはやや子どもっぽいイメージですが、極めて硬派な内容です。製作公開はヨーロッパ開戦直前。太平洋戦争突入を控え日本での米映画公開は禁じられていきますが、本作はその直前にリアルタイムで公開され高い評価を得ています。

物語の筋は太い一本の幹。金と政治の絡み合う“大人の政治慣習”に庶民感覚の正義と倫理が対抗できるか、というシンプルなモラルがテーマ。
ある西部の州から選出されていた上院議員が急死、後任議員の指名が急がれた。地元財界の大物テイラーへの利益誘導を意図したダム建設法案の提出を間近に控え、州知事は傀儡候補を押すが議会の反対で頓挫する。困った州知事は起死回生の候補者を見つけ出す。それが純情誠実な正義漢、地元ボーイスカウトのリーダーである若きスミス(ジェームズ・ステュアート)。少年たちの家庭の票が計算できること、世間知らずの単細胞なら扱いも容易と州政府は考えたのである。そうしてスミスはもう独りの州選出ベテラン上院議員ペイン(クロード・レインズ)と共に議会出席のためワシントンに上京する。
政界の常識も知らない朴訥なスミスに、議員秘書のソーンダーズ(ジーン・アーサー)や議会付きの新聞記者たちは呆れ気味だが、やがて真摯で真っ正直な人柄に理解を示していく。やがてスミスが提出した少年キャンプ場設立法案がテイラー&ペイン提出のダム法案の買収予定地とバッティングしたことで事態は急変する。ペインはスミスにダム設立に協力するよう求めるが彼の正義感は潔しとしない。ペインはスミスの姿に自分が見失っていた若き日の理想を思い出すが後戻りはできず、スミスの汚職疑惑をでっち上げ窮地に追い込む。理想や正義も歯が立たないと失望し帰郷しようとするスミスは、リンカーン記念館でソーンダースに説得される。

議員追放が決議される本会議に出席したスミスは、ソーンダースから授けられた知恵に基づき、決議前に議長に発言を求める。発言権を行使している限り議事は次に移れない。それを使ってスミスは自己の正当性とダム利権疑惑を告発するスピーチを行い、地元マスコミの世論を喚起して局面の打開を図ったのだ。記者席のマスコミはスミスに協力するが、テイラーの財力と権力は地元マスコミをすべて買収し圧倒的組織力で反スミスキャンペーンを展開する。地元少年たちのガリ版刷りのビラ配りさえ妨害されてしまう。スミスの演説は23時間を超え体力も気力も限界を迎えていた。テイラーが作り上げた地元からの抗議電報の山を見せられたスミスは最後の気力を振り絞りペインに建国の大義を訴え、精根尽き果てて失神する。議会のギャラリーが絶望しかけたその時に奇跡が起きる…。

名匠フランク・キャプラがジェームズ・ステュアートを主演に撮った社会派ヒューマンドラマの傑作。ラストを甘いと言うことはできますが、そこまでのプロセスでは現実の厳しさを容赦なく主人公に突きつけており、決してご都合主義とばかりは言えません。そればかりでなく、改めて鑑賞した本作の普遍性に感心せざるを得ませんでした。
スミスが闘うエンジンは合衆国建国の大義です。真の自由と平等を目指すデモクラシーこそが、政治家の根幹姿勢にあるのだと真っ直ぐ前を向く彼の目線と姿勢こそキャプラが託したメッセージでした。画面は幾度もリンカーン像とその演説文書の“government of the people, by the people, for the people”を捉えます。本作製作当時は、世界大戦に向けて大国の思惑が交錯していた時代です。米国においてもそうした大義の揺らぎとと現実利益のせめぎあいは大きかったのでしょう。そこにキャプラの怒りがあったものと思います。

9.11以後、米国の正義と大義は国際社会の中で随分相対化されました。ベトナム戦争で始まったその揺らぎは今日さらに深刻になっていると思います。世界のマクロ視点では確かにそうでしょう。しかし、ミクロ視点での普遍性はあると、私は思います。本作に描かれたメッセージは、今日の日本の内政においてもまったく同じ状況です。通信技術の進歩の描写さえ考慮すれば、このシナリオはそのまま今日も通用する力を持っていると思います。