「ランボー最後の戦場」2008

kaoru11072008-06-13


写真はすべて(C) 2007 EQUITY PICTURES MEDIENFONDS GMBH & CO.KG IV

昨年同時期に公開された良作「ロッキー・ザ・ファイナル」に続き、スタローンが自身のヒットキャラクターの終章を描いた“RAMBO”。私は支持します。
ストーリーも登場人物も上映時間もシンプル且つタイト。余計な描写を削ぎ落とした潔さ。そうして紡ぐ映像は、R-15指定も当然の殺戮シーンの連続。「プライベート・ライアン」で戦場の残虐描写が革新されて以降、幾多のクリエイターが試行錯誤を重ねた結果得られた、生理的に耐えられなくなる寸前で描写を留めるカッティングを全編に畳み込んでいます。アクション娯楽映画の観客である居心地は保ちながら、目と耳はミャンマーの殺戮の戦場に引きずり出す演出の醍醐味。監督スタローンは娯楽映画の生理をよくわかっているのでしょう。

私は不勉強でミャンマーの政治状況の詳細を知りません。従って、スタローンが本作で絶対悪に描いた政府軍部隊の立場を客観的に論じることもできません。それはスタローン自身も自覚していることなのかもしれません。アバンタイトルのニュース映像とナレーションで大状況はサラッと描いただけで、あとは徹底してミクロな戦局のみにこだわります。
対立したそれぞれの立場や人権を相対的に考慮する視点も配慮もない。殺すか殺されるか、陵辱されるか逃げ延びるか、という切迫した身近な状況のみの連続。それが暴力に支配された場の空気なのだ、という単純明快な確信がこの映画を支配しています。何故なら、そのような場でしか己の存在理由を見出せない男を主人公に抱くから。それを自覚した主人公だからこその社会への節度があります。

この映画の残虐アクションは、リアルと荒唐無稽の紙一重です。公開を終えればやがてフィクションの暴力描写バリエーションとして“こんな描写もあるよね”に納まるものと思っていました。ところが無差別殺戮の暴力に支配された白昼の秋葉原は、ミクロな暴力状況の中で人間の思想が瞬間無力になってしまうことを再認識させました。本作はある種時代の普遍性を有した映画になっている訳です。

暴力を制するに暴力を持ってしても不毛、だから、殺し合いは良くない、という主張は一見正しいですし、現代社会の理性的なしくみの基本となっています。報復主義など不毛だと。本作にマッチョ的ヒロイズムを読み取ろうとする方々は、そういう視点で好戦的映画と言われるのでしょう。しかしそんな見方はあまりに浅薄。あまりに短絡。
この映画は、敵も味方も同じように肉体を破壊され死滅する地獄をきっちり描くことで、初老のアクションヒーローの虚無と無常観を浮き彫りにします。表面的な反戦映画など、現実の暴力の前では屁のツッパリにもならないことを明らかにします。この世には、そんな地獄もあるという現実。それを認めたくなければ「Go home!」。そうランボーは語るしかないのです。
徹底して暴力の残虐のみを描くことで、極めて硬質で高質な反戦、反暴力を訴える無常観。それが本作を支持する根拠です。

ロッキーに続き見事な晩節を見せてくれました。シリーズ映画としてこれほどの有終の美は珍しいです。