「炎のランナー」1980

1980年イギリス映画にしてアカデミー賞作品賞受賞作。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったヴァンゲリスの印象的な旋律に乗せて、スローモーションの短いカットを畳み掛ける編集と、1920年代のヨーロッパの雰囲気をシックに描いたスタイリッシュな映画。1924年パリ五輪をクライマックスに、メダルを目指すスプリンターたちの物語と言うと、感動的なスポ根物語を連想するがさにあらず。説明や饒舌を抑制し、淡々と静かに、メダルにかけた男たちの情念を描ききっています。その映像と音楽のセンスは、その後のCM映像などに大きく影響してもいます。

主人公は2人のランナー。ひとりはユダヤの裕福な家庭に育ち、潜在する人種偏見を打破して英国エスタブリッシュを見返そうとメダルを目指すケンブリッジ生ハロルド・エイブラハム。もうひとりはスコットランドの伝道師として生まれ天性の素質を信仰の一助として走りぬくエリック・リデル。映画らしいフィクションを随所に挿入するものの、この二人は実在のランナー。大英帝国の栄光がまだ残存していた時代、そしてトップアスリートの世界がまだ欧米白色人種の競技であった最後の時代。映画は二人の若きランナーの信念と葛藤を丁寧に炙り出そうとします。それは静謐で潔い。
日本人の私には、アングロサクソンユダヤの間の見えない壁や偏見へのリアリティが生理としてわかりにくいからかもしれませんが、エリック・リデルの物語の方に引きずられて観てしまいます。エイブラハムとの100m直接対決を制する程の素質に恵まれたリデルは、パリ五輪の100m予選が日曜日開催と知り葛藤します。敬虔なキリスト教徒でないと実感できませんが、安息日にスポーツレースはご法度なのです。国家の威信と自己実現欲求よりも、信仰の自由を貫こうとするリデル。それが実話であるだけに観る者の浅薄な魂を撃ち抜きます。人間の信念は、それ自体が美的なものであることを知る。走ることなくドーバー海峡を帰るしかないと思う彼に、思いがけないプレゼント。そこにヨーロッパ貴族の精神の美を感じられるのも一興。男たちの魂が美を競えた最後の時代でもありました。
炎のランナー ― オリジナル・サウンドトラック

炎のランナー ― オリジナル・サウンドトラック

映画はパリ五輪のあと、1970年代の終わりに少しだけカメラを移して終わりますが、エリック・リデルの後日談はネット上で検索できます。彼は中国天津の出身で、パリ五輪の後に中国での伝道に従事します。そして第二次大戦期をずっと中国で過ごし、その末期は日本軍の収容所で過ごしたと言います。
収容所において、彼は、横暴な日本兵に憤りを抑えきれない後輩の英国少年にこう諭したそうです。「敵を愛することが出来なくても、『迫害する者のために祈れ』と聖書にあるから、迫害する日本人のために祈ることは出来ますよ。憎む時、君は君中心の人間になるけれども、祈る時、君は神中心の人間になります」・・・そう諭された少年は戦後日本に渡り、長く布教に務めたそうです。
そんなリデルは、1945年、脳腫瘍のため収容所内でその生涯を終えたそうです。映画のラストにテロップが出ますが、スコットランド全土が喪に服したと聞きます。いつの世も走る若者の肉体の躍動は美しい。その中に宿る精神と信念はもっと美しいものなのだと思います。それにしても当時のヴァンゲリスの仕事は素晴らしい。彼の音楽があってこその映画とも言えるのでした。