「緋牡丹博徒 お竜参上」1970

富司純子でもなく、寺島純子でもない。“緋牡丹のお竜”こと矢野竜子は、藤純子でなくてはならない。「緋牡丹博徒」1968に始まり「緋牡丹博徒 仁義通します」1972までの5年間全8作。やくざ映画というジャンルの中で唯一無二のヒロインとして、“お竜さん”は記憶に残り続ける。

加藤泰監督の凝りに凝った様式美演出でシリーズ代表作となった「お竜参上」は、前年の同監督による「花札勝負」1969の後日談的な物語。「花札勝負」が3作目、「お竜参上」は6作目。このシリーズは厳密な時系列の整合を採用していないので、正確には続編ではありません。それでもこの2作品の出来栄えは格別、図抜けています。
明治の或る時代、熊本人吉の矢野一家二代目のお竜(藤純子)は渡世稼業の旅を続ける。縁あって世話になった土地の親分(ex.嵐寛寿郎)は立派な侠客として信望が厚い。それに欲得づくで対抗する“悪い親分(ex.小池朝雄、安部徹)”が出現し、お竜はその抗争に巻き込まれてしまう。そこに腕が立って義理人情に厚い流れ者(ex.高倉健菅原文太)も絡んで事態が複雑化、中盤の危機はお竜を慕う四国道後の兄貴分たる熊虎親分(若山富三郎)がコミカルな空気と共にヘルプしてくれるが、悪い親分の悪辣で執拗な攻勢は止まず、良い親分は大抵謀殺されてしまう。すべてが窮地に追い込まれた夜、単身殴りこみで決着に臨むお竜さん。彼女の決意に寄り添うように流れ者が加勢に駆けつけクライマックスの道行きへ・・・。

様々なバリエーションやサブプロット、サブキャラクターは存在しますが、どの作品も概ね上記のような構造になっています。歌舞伎のがまん劇の伝統を引き継いだやくざ映画の典型でもあります。まあ、現実に良いやくざと悪いやくざが分別可能かどうかはわかりませんが、東映やくざ映画の主人公達は自己抑制的で禁欲的なモラリスト。それは寓話や神話の領域。1973年「仁義なき戦い」というある種のリアリズムの台頭で消滅しまが、その直前の艶やかな炎がお竜さんでした。固定的なキャラクター設定とプロットの制約の中、情念のせめぎあいをモラルある侠客の所作や口上に込めて結晶化する特殊な映画世界。リアリズムの抑制がある故に、藤純子の美しさが活きて際立ちます。
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特に、監督の加藤泰の画面設計に魅せられる。徹底したローアングルからの仰角ショット。ここぞという芝居場ではカットを割らず長回し。画面の端々の道具立てで台詞にない情感を描写するケレンの妙。日本映画独特の美の演出は印象深いものでした。例えば、「花札勝負」における雨のそぼ降る鉄橋下、高倉健藤純子の傘の受け渡し。柄を握る手が触れ合うかどうかの情の交錯のバックに汽車の白い蒸気が横切る奥行きの豊かさはどうだろう。例えば、「お竜参上」における雪の今戸橋、菅原文太藤純子が語り合う場面の凛とした墨絵のような静けさ。文太に渡そうとした黄色いみかんが雪の上をころがる官能はどうだろう。しびれる場面とはこういうものだと思います。

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藤純子東映の当時の大プロデューサー俊藤浩滋の娘だったこともあって、“女やくざ映画”でありながら、安易なエロティック演出を一切排すことに成功しています。彼女は惚れた云々を口にすることはまったくありません。そうした感情は上記のような演出の美の中に忍ばせるのみ。それが映画の品格につながっています。“緋牡丹”とは彼女の背中の彫り物を指す訳ですが、それをもろ肌脱いで見せるシーンも、一作目に少しだけです。この品格が、藤純子の特別な存在感を作り上げていたのです。何しろ、シリーズ全作の脇役たちが大スターばかりだったのも驚きなのですから。娘の寺島しのぶさんとはまったく異なる存在感でした。