[カ行/洋画]「グラン・トリノ」2008

グラン・トリノ」はシンプルな物語。しかし、誰もがいろんな視点から様々な感想と感慨を語らずにはいられなくなる。「優れたドラマとは、作者の意図に関わらず歴史や政治の暗喩に達してしまうものだ」とは、私の恩師の言葉ですが、本作はまさにそれ。C.イーストウッド最後の出演作と呼ばれるこの映画は、不思議なほど豊穣で、極めて知的な傑作でした。

ハリウッド大作の構えなのでクライマックスの風呂敷はやや広くなっていますが、イーストウッドは非常に小さな物語を肌理細やかに描いています。中盤を過ぎるまで、あたかも日本のテレビドラマを観るかのよう。それは山田太一倉本聰全盛期のドラマにも似た味わいです。加えて、ドラマの主軸は主役の頑固ジジイ:ウォルトと未熟な東洋の少年:タオの師弟関係に置かれます。この構図は、かつて黒澤明が好んでモチーフにしたものであり、まるで古きよき日本映画のテイスト。そして老いと死がテーマとして絡むとき、それは「生きる」1952であり「赤ひげ」1965であり、それらが二重写しになるのです。
この監督の、人間を見る目の優しさと柔軟性。人種偏見剥き出しのウォルトを演じながら、彼がヒューマニストであるとわかります。この視線のしなやかさこそ、“硫黄島2部作”を日本人にとっても誇れる映画足らしめたのです。かといって、優しさと甘さを混同する愚も犯さない。いかなる善人にも運命の過酷は平等に降りかかるというリアリズム。それが揺らがない信頼性の高さ。例えば、私はモン族の慣習風俗を初めて知りましたが、ハリウッドの常套として“全編英語”で描写することもできます。でも監督はきちんと人物設定に応じて母国語しか話さないシーンを徹底します。それをいい加減にしたら、テーマは損なわれる・・・。彼はよくよく理解しているのです。

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黒澤映画との共通点をもうひとつ挙げるならば、善悪に対する基準のブレのなさ。それは小賢しい価値相対論ではなく、単純な市民生活の感覚に根ざすボーダーラインのこと。つまり、“職能”によって社会の他者に役立とうとする(どんなに些細なものでも)人間は、多少の俗悪があっても善として描かれます。その目線の優しさのことです。注意深くこの映画のカット尻を見つめるがいい。ストーリー展開に不必要であっても、監督はそういう登場人物の仕草をきちんと画面に残します。主人公追いだけでカットつなぎをしてません。そんな姿勢が本作をとても豊穣なものにしています。逆に、そうでない種類の人物への容赦のなさ。ワルは悪である、との立場は鮮明。60年前の日本兵側のドラマを掘り下げた方法論で、街のチンピラ側のドラマ構築もできる訳ですが、イーストウッドも黒澤もそこには関心がない。二人は“社会派”なのではなく“庶民目線のヒューマニスト”なのです。

そんなヒューマニズムの視座から掘り下げたこの映画は、アメリカという国が新しい時代に向き合っていること、次の時代に移行していることを非常に分かりやすく伝えてくれます。それも移民の国として極めて自然なありようと言えます。クライマックスで主人公がとった行動は、ベトナムや中東などに向き合う国家のありようの暗喩とも見ることが可能です。加えて、イーストウッドという役者が演じ続けてきた数々のヒーローの晩節の決着と見ることも可能です。いや、そんなことは一切頭からどけて、この老人と少年とその家族の物語に酔ってみたいと思うのも正しい観賞の姿勢だと思います。

監督・主演、ボーカルまで聞かせてくれたイーストウッドの紛れもない代表作ですが、非常に知的で丁寧なシナリオを書き上げたニック・シェンクの仕事の素晴らしさ。前述の“まるでTVドラマのような”は、このシナリオの勝利への賞賛です。私は、仮にあのクライマックス描写がまったく別のものになったとしても、エンディングの感動は大きくは変わらないのではないかと思っています。極端な言い方ですが、それほどに米国の今日を斬った“ホームドラマ”は見事です。「彼が何故殺人を犯したか、を描くのが劇映画だとすれば、彼が何故彼女と結婚しようと思ったのか、を描くのがTVドラマだ」とは、40年以上前の作家の言葉ですが、本作はそれらを本気で融合させたものと言えるでしょう。
グラン・トリノ」は誰がなんと言おうと傑作です。辛辣で哀しくて、でもほのかな希望を見つめることができる傑作です。小さいけれど豊穣な映画の物語がここにあります。