「レスラー」2008

例えば表題の一文を知っていたり、主演のミッキー・ロークの人気絶頂期を知っているなど、この映画を隅々まで味わうには世代を選ぶかもしれない。しかし、それは自分がそういう世代だから思うのであって、素直に向き合えば誰でも必ず全身に響くものを受けとめられる。そんな稀有なクオリティを湛えた作品。世界中の各賞を総なめにしているのも頷けます。

写真はすべて(C) 2008 OFF THE TOP ROPE, INC. AND WILD BUNCH. (C) Niko Tavernese for all Wrestler photos
20年前に人気絶頂だったプロレスラー、ランディは中高年期になっても現役を続けていた。稼ぎも少なく肉体もボロボロ、家族とも離れトレーラーハウス暮らし。それでもレスラーのプライドは失っていないランディだったが肉体酷使のツケからか心臓発作に襲われる。唐突に訪れた引退期に、不器用な中年男がどう葛藤するのか・・・。
物語はシンプルだし、決して目新しいものではない。しかし本作は2つの点で稀少である。ひとつは“プロレス”という興行スポーツの舞台裏を丁寧に劇映画に描いていること。もうひとつは勿論、ランディというキャラクターとミッキー・ロークの肉体と実人生が奇跡的にシンクロしていること。

プロレスを描いた映画は意外に少ない。ハリウッド作なら「パラダイス・アレイ」1978、「カリフォルニア・ドールズ」1981くらいでしょうか。それでも過去の作品の大半は、試合相手との対立感情や勝敗の行方など、プロレス興行の構成要素はできるだけそのまま劇中に持ち込んでいます。要するに、試合は“八百長”ではないとの描写。そこから一歩踏み込んだ本作は、レスラー同士がどのように互いに敬意を払い、打ち合わせに基づき観客の満足を成立させようとするかをきちんと活写。これがなければ本作のテーマは成り立たない。これはひとつの職業にのめり込んだ男のあがきの物語。職場のリアルが描けなければすべてが絵空事になってしまいます。

何より本作最大の個性は、主役のロークの存在それ自体。監督のダーレン・アロノフスキーは自身のアイディアの映画化にあたりプロダクションから提示された二コラス・ケイジ主演を拒否し続けた。脚本も演出プランもすべてロークでイメージしていると譲らなかった。結果、予算は削減され公開劇場も絞られる。ロークは1980年代にセクシーな男性スターとして人気絶頂だったが、90年代には奇行めいたスキャンダルに埋没。鍛えた肉体で若い頃に打ち込んだボクシングにプロとして臨むも失笑を買い顔も変形する等々、愚かな堕ちたスターとして忘れられていった。
それでも俳優を続けていたロークに舞い込んだ若き監督からのこのオファー。加えてニコラス・ケイジも自らに寄せられた主演オファーを拒否、自分よりロークが適役と主張。これで燃えない俳優はいない。現役レスラーと遜色ない肉体と行動を身につけたローク。作品世界と現実世界がこれほどにシンクロし、ひとりの俳優の肉体の息遣いのが映画すべてを支えた作品は極めて少ない。その奇跡こそが映画「レスラー」です。

ネタバレは避けたいので詳細は記しませんが、本作のラストに向かう展開は「あしたのジョー」の展開に非常に似ています。作者達が日本の漫画をモデルにしたとは思えませんので偶然の共通性に違いありません。そんな小理屈はともかく、これは優れた映画です。映像メディアでしか伝えられない物語を味わう感動がありました。
※プロレスラー三沢光晴氏が試合中のリングで絶命する事件が生じました。プロレスは真剣勝負のケンカではなく芸能に近いプロスポーツですが、肉体酷使の限界レベルで成立させる高度なパフォーマンスです。レスラーは死のリスクと隣りあわせでリングに立つという意味で、これはやはり真剣勝負です。三沢氏の冥福を祈ります。