「七人の侍」1954

10代の頃、井上ひさし氏の作品はよく読みました。大人になってからは氏の主張のすべてを支持するという訳にはいかなくなりましたが、それでもエンタメとして文学として、常に高いレベルの描写を生み出し続ける力量とエネルギーには圧倒されてきました。
例えば1981年に日本SF大賞を受賞した「吉里吉里人」の面白さはどうだろう。思想性の高さを面白さの話術と抱腹絶倒のギャグで紡いだ大長編。東北の寒村が独特の技術立国(医学立国)をしてみせる痛快さは、閉塞状況にある30年後の我が国が十分検討すべきモチーフの見事さでした。

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

そんな井上氏が愛してやまなかったのが劇映画。特に往年の日本映画に対する愛好の表出は、多くの映画ファンに豊かな影響を与えてきました。これからもそれは続くことでしょう。もう20年ほど前に、文芸春秋が文化人対象に日本映画ベストテンをアンケートした際、「10本選べとは酷だ。きっと11本目が辛くなる。100本選べと言われたら考える…」と言ったとか。そこで編集部は氏にのみ100本選べと再依頼。かくて氏は1980年代までの個人的ベスト100を長文のコメントをつけて回答。文春はそれを全文掲載。これが大層面白いミニ批評集の趣きで、繰り返し繰り返し読んでいます。そうして思い知るのですが、映画に関して記す文章に、私が最も影響を受けたのは井上氏でした。ああ、そうだったのか、と思いました。氏の映画文で最も素敵なものが、「七人の侍」のLD添付の冊子に掲載した「希望」です。以下、少し引用です。
 この作品に「世界映画史上、空前絶後の大傑作」という形容詞を捧げても決して褒めすぎにならないことは現在では常識のようなものだから別の褒め言葉が必要だろうと考えて、たった今、「映画という表現形式は黒澤明にこの作品を作り出させるために考え出されたものに外ならない」という一行を捻り出したところだ。ほんとうにこのぐらい褒めないと褒めたことにならないぐらい、凄くて、深くて、おもしろい作品であることは、ご覧になれば(あるいはご覧になった今では)、賢明な諸兄姉にはおわかりいただけるはずである。こうも言えるだろうか、「シェイクスピアの作品さえあれば演劇とはどんなものかわかるし、ドストエフスキーの作品さえあれば小説とはどんなものかわかる。それと同じように『七人の侍』さえあれば映画とはどんなものかわかるのだ」と。もちろんこういう言い方は、『姿三四郎』や『生きる』や『用心棒』や『天国と地獄』や『赤ひげ』や、さらにほかの監督たちのすばらしい仕事を無視することになりかねないから適切さを欠くのは確かだが、しばらくこのままの勢いで書くことをお許しいただきたい。・・・
私はこんなにも極端な偏愛に溢れながら、こんなにも節度と配慮の行き届いた微笑ましい書き出しを、映画の世界で読んだことがありません。全文掲載は憚られるので、関心ある方は、以下のムックに掲載されているので是非お読みいただければと思います。
黒沢明―天才の苦悩と創造 (キネ旬ムック)

黒沢明―天才の苦悩と創造 (キネ旬ムック)

そして、私がこの文章を忘れることができないのは終わり近くに記された以下の数行でした。私が映画を好きでい続ける理由の相当部分を、氏はすでに表現されていたのだと思います。合掌。
・・・すべて偉大な作品は、「どのように状況が悪くても生きることに絶望するな」と、人生という名の涙の谷で、悪戦苦闘を余儀なくされているわたしたちに励ましを贈ってくれるが、この作品を観直すたびに、救い主は、『七人の侍』という映画に姿を変えてすでに降臨しているのだと奮い立たないではいられなくなるのだ。・・・