「SPACE BATTLESHIP ヤマト」2010

宇宙戦艦ヤマト」のファースト放映をリアルタイムで視聴したのは中学の時。毎週のTV放映の吸引力は当時強烈な記憶として残っています。「ヤマト」が再放映からブレイクして徳間書店の「アニメージュ」創刊を産み、今日のアニメ・サブカル文化の礎を形成するのはそこから数年以上の時間が必要でした。つまり思春期の男子にとって、当時リアルタイムのブラウン管に映る画しか存在しなかったです(家庭用ビデオ普及はもう少し後の話)。その“一期一会感”こそ個人的なヤマト体験。山崎貴が実写版を制作との報に接した時、どこかであの体験を想起させてくれるかもと思ったのです。放射能汚染された赤い大地に傾くスクラップ大和のイメージは、それなりに期待を紡いでくれたのですから。

この実写リメイク、私は限定的には評価します。コンテンツの色艶よりも金銭が好きな人々の邪な期待を背負いながら、30年以上前の思い入れの美化に対抗する創作は、どうしたって勝ち目の少ない勝負です。それを担ってみせる心意気には拍手したい。そりゃあ批判しどころは沢山あります。手放しで褒める作品ではありませんでしたが、オリジナルへの敬愛はちゃんと踏まえてある訳ですし、こういうチャレンジを貶めてはならないです。そこは認めた上での作品評価です。
新旧を素直に比較すれば、2クールのTVシリーズを単発劇場作品としてリメイクする無理は負担でした。CG実写による演出が部分的にはオリジナルを凌駕する場面もありますが、如何せん劇中で1年間にわたる物語を2時間半以内に収める無理は厳しい。まずシナリオの限界がそこにあるので、全ての描写が浅く唐突にならざるを得ない。結果人間描写もSF的な深みもひねりも明らかに不足してしまう。非常に残念。この撮影素材で1時間×7本程度のミニシリーズに再編集してTV放映なら見応えも変わることでしょう。

加えてファースト放映のファンにとっては、山崎貴監督はじめ主要スタッフが若干世代的に若いということもちょいと複雑な想いを抱かせます。結局「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」1978への思い入れが強い世代なんですよね。そこに執着が無い私としてはクライマックスへの共感がありません。そこも残念。一定の評価をすると言いながら残念を重ねる矛盾をご容赦ください。素直な気分がそうなのです。余談めいて印象に残ったのが、沖田艦長役の山崎努氏。ほんのワンカット、“念仏の鉄”的な演技と仕草を見せてくれたところがあって、少し微笑ましい気分もありました。

さて、そのように本作を振り返ると、自分の心にあまり刻まれていないことに気付きます。サラリと流れて記憶に残らないという感じです。シナリオに難があるとはいえ、オリジナルに沿った物語でありキャラクター配置なのです。しかるに昭和49年の少年の心を捉えて離さなかった何かはこのリメイクに存在していなかった、ということになります。それは一体・・・?
何のことはない、ここには“松本零士の画”が存在しなかった。もう少し言葉を加えるなら“メカニックと男の魂の艶”が存在しないのです。嗚呼、かつて自分はそのディティールの豊穣さと哀しい魅力に惹かれていたのだと再発見したのです。

男おいどん (1) (講談社漫画文庫)

男おいどん (1) (講談社漫画文庫)

松本漫画との出会いは昭和46年頃、時は少年マガジン全盛期。近所の同級生の薦めで読んだ「男おいどん」にのめり込んだのが始まりでした。そっちから入ったので、松本メカ描写のシャワーを素直に浴びたのがファースト・ヤマトでして、その描写の振れ幅から生じる印象の揺らぎ、画物語から感じる艶気にあてられました。リアルな機械描写でありながら、その機械を擬人化するアプローチは独特の世界。無機質を無機質として写実しながら、物語の中で明らかに擬人化された印象を醸す作家を、私は他に知りません。大人になって、松本氏の現場で共に筆を執られた方と出会う縁を得るのですが、そこにも思春期に受けた感動と感傷の派生を感じるのは私がロマンティストだということでしょうか・・・。
例えば1978年当時松本氏は「さらば・・・」のラスト展開に大反対しました。かつて日本の若者たちが絶望の中でなしえなかった“希望のための大航海物語”をこそ“ヤマト”に紡ぎたい、と。それはこのコンテンツの核心でもあった訳ですし、そこに“機械表現の豊穣さと色艶”が渾然一体となった魅力がファースト・ヤマトだったと思います。
ザ・コクピット (1) (小学館文庫)

ザ・コクピット (1) (小学館文庫)

結局キムタクのヤマトが私に伝えてくれたことは、「もう一度松本零士の仕事を見ろ」という言葉でした。実写リメイクへの挑戦を私は無駄とは思いません。批判と共に評価もします。その上で、多くの少年たちに熱を与えた“ヤマト”という作品世界は、松本零士の画の力と、先の戦争で心ならずも悲劇に散った男たちとメカニックたちへの深い共感と哀悼と賛歌がディティールに宿っていたからこそ、時代を超え得たのだと再認識させてもらいました。