「世界大戦争」1961

1.松林宗恵の描いた戦災
 生前の松林宗恵監督に「世界大戦争」1961のお話をうかがった時、私自身が消化しきれなかった部分がありました。それは、監督が戦争の災禍を“人間の小賢しさで左右できない歴史の動き”として描いて来られた姿勢を語られたことでした。戦争も政治外交の一形態であるはずなので、どこか人智を超えた災禍と捉えることに小さな違和感を覚えた訳です。僧籍を持ち、仏教的無常観を基底においた創作を貫かれた監督ゆえの言葉と思い、その時は未消化状態のままに飲み込んでいました。そのまま数年を経て、その引っ掛かりは記憶の底に眠っていました。
 2011年3月11日に東北の太平洋沿岸に起きた出来事のTV映像は、私に老監督の言葉を想起させました。「嗚呼、監督はこの感情のことを仰っていたのか…!」

 戦争は確かに人為的なものであり自然災害とは異なります。しかし人為的な災禍でもそのスケールがあまりに巨大な場合には、自然の猛威と同様に渦中の個人を翻弄することでしょう。状況を克服しようとする個人の知恵と努力が無力化される程の災禍にあって、ミクロ視点から見れば天災と人災の差異は無くなります。「太平洋の嵐」1960で、沈みゆく空母飛龍の艦長山口多聞三船敏郎)の亡霊に語らせた独白はそこに軸足があったのです。監督松林宗恵は常に戦災をそう描写し、その災禍の中にある人間にとっての無常を描き続けたのです。
 かつて松林戦争映画への批評は、人災としての戦災に至った因果関係、加害者としての戦争経験への反省や分析を欠くとの指摘が常でした。その批判に妥当な部分はあるでしょうが、巨大な災禍の中に倒れていかざるを得なかった人間への視線として、私は松林映画の無常感を支持します。
 津波による広大な廃墟を目撃した時代の当事者になってはじめて、私は太平洋戦争を経験した映画作家の精神の在り様を理解する資格を得たのかもしれません。いかに何も知らなかったかことか。さもわかったような顔をして、監督に向き合って相槌を打っていた自分が今ひどく恥ずかしい。そしてそれでも話をしてくれた松林翁の優しさを改めて知ります。

世界大戦争 [DVD]

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 「世界大戦争」は、第三次世界大戦として勃発した核戦争による人類滅亡を描いた映画でした。私が生まれた年の東宝作品。実質的な製作総指揮をとった当時の東宝幹部森岩雄が、稀代の特撮監督円谷英二にスペクタクルを任せ、本編の人間ドラマを松林宗恵に演出させた映画でした。そのクライマックスは東京に炸裂する水爆による都市壊滅。生命がすべて失われた廃墟のイメージは、今回の震災と津波が私たちの眼前に突き付けた廃墟の画像と、極めて近い感情で胸を突き刺す点で同じです。それは当事者にとって理屈ではありません。

 都市破壊描写の直前に、フランキー堺演ずる主人公が自宅の物干し台に上って叫ぶシーンがあります。敗戦を経て16年、東京の片隅でささやかながら幸福といえる家庭を構え、そろそろ自分たちも少しは豊かな暮らしを楽しむことを考えようかと思っていた矢先の核戦争勃発。あまりに急激で巨大な危険が迫り、避難すらできない絶望の中で彼はただただ絶望の口惜しみを絞り出すことしかできません。本作に対して、戦争により被災する庶民の哀感に偏りすぎポリティカルフィクションとしての人間の尽力を描写しない物足りなさを指摘する批評は多くありました。しかし、本作の作者たちは徹頭徹尾、巨大な災禍の中で消滅せざるを得ない個人の無力に寄り添うことを選択したのです。そうするしかなかったのだと思います。

 日本映画の黄金期は、敗戦の経験が観客と映画作家たちの記憶に鮮明だった時代と重なり合います。戦後に生まれ育った私のような観客は、彼らが映画に込め、共鳴・共感してきた悲嘆や無常感を理屈でしか知りえませんでした。2011年3月を経たことで、私は改めて昭和の日本映画に向き合ってみたいと思います。