「二十四の瞳」1954

2.木下恵介が描いた涙
 戦後の日本映画黄金期を支えた巨匠のひとり、木下恵介監督作品。天才と称される木下の映画で、おそらく最も多くの観客を動員した作品。日本が壊滅的な敗戦を経験して9年目に公開された本作は、その年の興行面と批評面で圧倒的好評を得ます。しかし高度経済成長に伴い戦災の記憶が薄れる中、いつしか“過去の名作”というありきたりなレッテルを貼られてしまいます。同年公開の黒澤映画「七人の侍」が永遠のNO.1として生気を保つのと好対照。なまじ国民映画的ヒット作であった故に、多様多彩な木下映画世界すべてを代表して過去に埋める錘になったかのようです。

二十四の瞳 デジタルリマスター2007 [DVD]

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 私が本作を初鑑賞したのは学生時代、確か池袋の文芸地下。当時はまだ木下恵介の名声は確固としており、その後数十年でこれほど世間的な扱われ方が変容するとは思ってもいませんでした。少しでも真面目に映画と向き合ったことのある観客なら、それが明らかに過小評価であるとわかるでしょう。本作のみならず「野菊の如き君なりき」1955、「楢山節考」1958、「日本の悲劇」1953、「女の園」1954、「笛吹川」1960の魅力はもっと時代に引き継がれてあるべきと思います。
 私たちは2011年3月11日を体験しました。その事実は、私たちが映像物語の世界に求めるものをどこかで確実に変化させていると思います。今は気付かなくても、近い将来私たちは必ずその変化を自覚します。それは「二十四の瞳」の映像に改めて2時間半向き合えば、感覚として理解いただけるはずです。日本と日本人が“もう自分たちには必要ないだろう”と思っていた感情を、もう一度拾い上げる時期に来たとわかるのではないでしょうか? 過去に経験した感情が、半世紀以上の時間を経てリフレインする予感があります。

 本作の主人公高峰秀子演ずる大石先生は、分教場の教え子12人が不況と敗戦の渦中で翻弄される人生の立会人です。映画はクロニクルの手法で、先生と生徒が過ごした時間をただじっくりと見つめていきます。彼らは決して何らかの目的のためにアクションを起こすことはありません。常に変化は彼らの外側からやってきます。それに対する挑戦や抵抗はささやかなレベルに留まり、彼ら彼女らは宿命と運命を受け入れるしか術がありません。押し寄せる変化の力の方が圧倒的に大きいからです。その中で大石先生は幼い生徒に寄り添い、共に泣いてやることしかできません。ただただ一緒に涙を流してあげること、近代的自我を持つ個人が不条理を受容する際の辛さ、悲しさにただ寄り添って共感してあげる。ヒロインはそれしかできないのです。「七人の侍」が闘って運命を切り拓くことを象徴したドラマだったとして、その対極にある映画。それが「二十四の瞳」。昭和29年の老若男女は映画館の暗闇で、やはり一緒に涙にくれたのです。
 巨大な戦災という悲惨を受容するしかなかった日本人が、ようやく復興期に入り辛かった体験を振り返る時期に、共に泣いてくれる涙と愚痴の映画を求めました。そこに真摯な劇作と演出で最良の作品を提供できる映画作家がいました。木下監督がこの映画に込めた工夫と苦心が半端なものではないことは誰にでもわかります。こういうコンテンツがかつて本当に求められていたことを、今年の私たちは再認識する必要があると思います。
 前回記したように、個人の努力で変化させられない程巨大な人災は、天災被害とミクロ視点では大差ありません。前回の敗戦とその前後の大不況が私たちを翻弄した状況と、今年の東日本で起きたことは、個人の人生に与えるインパクトとして同質のものと思うのです。そこに寄り添うこと、一緒に嘆き悲しみ、愚痴と慰めの言葉を尽くす作家と作品もまた、人生に必要なものだと信じます。
 辛い目に会えば人は泣くものです。悲嘆にくれ不運を愚痴ることでしか解放されない心の在り様は間違いなくあります。そこに共感する涙に浸るプロセスを経てこそ、もう一度立ち上がろうとする感情の再生は確かになると思います。そんな映画に精魂込めた木下恵介を、若い世代に再認識してほしいと願います。