「空也上人がいた」2011

“宿命”と“運命”の違いを意識して使う人がどのくらいいるのかわからないように、“事実”と“真実”の隔たりを考えようとする人の数は決して大多数ではないように思う。そんなことに拘ることに大した意味はないだろうと仰る方も少なくないだろうし、第一そんなことに思いを巡らせていても、例えばビジネスの現場は動かない。では、そうした微妙な差異は重要でないかと言えば決してそんなことはなく、人間の生活の肝心なものはそこにこそ漂っているように思う。この世の中に生じている事象はすべて客観的事実の羅列であるけれど、個々の人間がそれを内面で認識する際には主観的な真実として消化するしかなく、ひとりの人間がずっと自分の内に焼き付けた真実の連なりが人生というものかもしれない。
…勤め帰りの車中で本作を一気に読み通した後で、自分の中から出てきた言葉はそういうものでした。

空也上人がいた (朝日新聞出版特別書き下ろし作品)

空也上人がいた (朝日新聞出版特別書き下ろし作品)

もうずっとさぼりがちのブログ更新なので、たまに書き込もうとすると妙に構えてしまい、言葉を紡ぐことに慎重になってしまいます。本当は、「新・悪名」1962か「沓掛時次郎 遊侠一匹」1966について記そうと思っていたのですが、最初の一行がどうしても出て来なくて、結局山田太一氏9年ぶりの小説を読むまで更新ができませんでした。すみません。それらの映画については近いうちに記したいと思います。
中学生活前半という多感な時期にTBSドラマ「それぞれの秋」に気持ちを揺すられて以来、山田太一のシナリオは自分の人格形成に最も影響したもののひとつでした。とはいえいい大人になってしまえば、文学青年・映画青年的な日常から離れて過ごす日々も増え、好きは好きながらどこかで距離を置いている自分になっていたと思います。例えば、氏が木下恵介監督に手向けた弔辞を忘れがたい言葉として諳んじているものの、どこか知が勝っているというか自分の気持ちの根幹から動くものでない表面的なものだったような気がします(そういう物言い自体が氏の影響というものでしょうが)。「空也上人がいた」という小説を読むことで、改めて自分のそうした気分を掴むことができたようです。
“事実”を“真実”として内面に焼き付ける光は感情なのだろうと思います。感情によって事実を受け止めると、それは相当歪な形になっているはずで、だからこそ人間の記憶は人格や個性を形作ります。
この小説が心地よくも力を持っているのは、そうした事実と真実の間にあるものを丁寧に掬い取ってドラマを凝縮していること。しかも年齢を重ねること、人間が老いるということを、感情による事実認識の連鎖の歪さの尊い連なりであると感じさせることです。非常にストレートにそれを訴えてくる。その訴求のために必要最小限な設定のディティールが描かれるのみで、81歳の男性と47歳の女性と27歳の男性という3人のみのコミュニケーションだけで描ききる純度の高いドラマ。その魅力に一時心を奪われました。やっぱり山田太一のドラマは私の人格形成に大きく影響するコンテンツです。
遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。