「くちづけ」2013

批判もある映画です。曰く、泣かせようとするあざとい演技が過剰。曰く、舞台そのままで映画としての独自性がない。曰く、結末が評価できない。そもそも知的障害者を涙のネタにしていいのか、等々。
でも私は、この映画を断然支持します。宅間孝行堤幸彦の才気が、このたまらなく切ない悲劇をぬくもりあるコメディで語りきったスタンスを好ましく思います。演劇集団東京セレソンデラックスの舞台は未見、宅間孝行氏の存在にも無頓着だった訳ですが、彼が描くドラマ世界を好ましく思いました。

写真はすべて(C) 2013「くちづけ」製作委員会

この映画はある程度観る人を選びます。いや、観る人の置かれた状況や、障害者が生きる現実をどの程度知っているかによって物語を受けとめる深度や角度が異なります。おそらく障害という当事者性と無縁の観客は、何も考えずに涙に浸れる感動作となるでしょう。それこそが、本作の長所であり短所です。商業的なあざとさに流れれば、確かに鼻持ちならない映画に堕します。また、障害者の家族には必ずしも観たい映画でない場合も多いと思います。
でも、私は、本作の作り手たちに節度を感じます。それはおそらく宅間氏が描いたオリジナルの舞台で既に備わっていたものでしょうし、映画化にあたって堤監督も絶対に外さなかったものでしょう。そこが私の支持の根拠です。

“親なきあと”は、障害児・者を抱く家族にとって永遠のテーマです。商業ベースに乗せられる劇映画で、それを真正面から描き得た作品は決して多くないですし、すべての観客が受けとめることは難しいでしょう。本作は、芝居のケレンを活用することでその難題を辛うじて乗り切ってくれたと思います。キャノンEOS C300という新開発された映画用小型デジタルビデオカメラがセットに入り込むことで生まれる臨場感、宅間氏の舞台的演技と映画俳優陣のリアリズム演技のハイテンションな掛け合わせ、そして昭和歌謡の名曲「グッバイ・マイ・ラブ」の持つ豊かな詩情とメロディが重なって、2時間の映画体験は辛く愉しく心地よいものでした。
私も障害問題の当事者のひとりですが、「ここまで描写してくれてよかった」と思えるシーンがいくつもありました。そこが作者たちの節度であり描写のスタンスだったと思うのです。少なくとも私が不快に思うことはありませんでした。
だって、多くのドラマにおいて障害者は福祉の客体として描かれ、障害の当事者が血を吐くような思いを主体として吐露するものは僅かではないですか。客体であるほうが多数の健常な人々には安定して観られますからね、「可哀想に」と言っていられますから。そういう向きにとって、本作のラストは不快な問題提起になるかもしれません。でも、これも現実です。
お涙頂戴と批判する識者もいるでしょうが、私は本作を観て多くの方に泣いて貰いたいと思います。その多くの涙の中のわずかでも、社会や観客自身にとってプラスに転じる小さな布石になると願えるからです。

かつて作家井上ひさし氏は、黒澤映画LDに添えた「七人の侍」について語った文章の中に以下の一文を記しました。
「すべて偉大な作品は、『どのように状況が悪くても生きることに絶望するな』と、人生という名の涙の谷で、悪戦苦闘を余儀なくされている私たちに励ましを贈ってくれる…」
本作は決して偉大な作品ではないでしょうが、観終わってこの一文を思い出します。絶望の涙を知ることは、希望を生むことにどこかでつながるのではないか、と思います。
ずっと開店休業だったのに唐突な更新ですみません。また時々記すと思います。