「それでもボクはやってない」2007

kaoru11072007-02-03

周防正行監督の乾坤一擲の話題作。いや、これは素晴らしい。とても見事な映画に仕上がっていました。

ストーリーは単純明快。
「痴漢の疑いで逮捕された無実の青年が否認を続けることで何を体験するのか」、それ以外の余計な要素はまったくなし。それでも上映時間は2時間半近い大作です。
それなのに、まったく退屈することのないサスペンスフルな展開があります。事件に直面した者が初めて実感しうるディティールの緻密さと興味深さがあります。冷徹に人間を見つめた知的なユーモアと胸を衝く心情への切り込みがあります。
だから上映時間の長さを全然感じません。古典的なドラマティックさはなくとも、映像ドラマとして十分以上に興味関心を惹き付けられ、且つ心を揺さぶられる感動も味わえます。
滅多にこういう作品にはお目にかかれません。さすがは周防監督、敬服します。あの美しい草刈民代氏が伴侶に選んだ人物です。本当に。

ここで物語について語ることにはあまり意味がありません。ご覧いただく他ないとい思います。つまり、これはストーリーの面白さを味わう種類の映画ではないのです。主人公の置かれた状況を疑似体験するものでしょう。
観客は、主人公の加瀬亮やその母もたいまさこに寄り添うカメラの目線で、通勤電車の駅事務所や警察署内、検察庁や裁判所の中を体験し体感するのです。そして、容疑者・被告となった主人公に極めて自然に感情移入して、この逮捕〜拘留・取調べ〜裁判を疑似体験するのです。
そう書くと何とも重苦しく辛気臭いイメージがわくと思いますが、それをキャストの魅力と脚本演出の魅力で、上品なエンタティメントとして面白く見せる工夫を徹底して詰め込んで見せています。こんなに知的なクリエイティブはもっともっと評価されるべきだと思います。


この映画を観ている途中に感じたこと。“この映画は極めてテレビ的だ”ということです。
この映画の語り口は、登場人物のクロースアップに徹することで成立します。相手の反応や状況の変化を登場人物がどう感じているのか、それをカメラでじっくりと見つめることで、物語が進展し、サスペンスが紡がれるのです。映画の大きなスクリーンサイズを活かした構図がさほどある訳でなく、上映時間の多くは人物の表情を見据えているのです。この手法は、テレビジョンが最も得意とするものなのです。
この映画がフジテレビの亀山プロデューサー作品だから言っているのではありません。この映像話法と、それによって社会的な問題に対する切れ味鋭いメッセージを込め放つ作品のあり方は、昭和30年代のテレビ草創期に、映画メディアに対抗して先人たちが練り上げたテレビメディアのクリエイティブ手法そのものなのです。
最近は大画面化が進みましたが、テレビというメディアはそのスクリーンサイズが劇場映画より非常に小さいという特性があります。映像で物語るという点でテレビは映画の子どもでしかありませんが、このスクリーンサイズを徹底して意識することで、テレビドラマ・テレビドキュメンタリーの文法が形成されていきました。
テレビ画面はロングショットが苦手ですが、人間の顔のアップはまさに等身大となり、家庭内の近距離でそれを見つめることで独特の親近性を生み出します。それを最大限に活用して、感情と心情を表現すること、そして古典的なドラマティックさよりも身近な社会的関心への切り込みと問題提起に重きを置くこと、これがテレビ的手法だったのです。
この「それでもボクはやってない」には、その良質なノウハウがふんだんに注ぎ込まれていました。それも見事に発展させてです。

そして、もうひとつ。
こういうテーマへの切込みを、単にサヨク的なイデオロギーからのステロタイプでヒステリックな糾弾ではなく、人間の心情を深く見つめて極めてパーソナルな立ち位置から静かに強い怒りを突きつける映画作家がかつて日本にいました。故木下恵介監督の正統なる後継者がここに顕在化したと思います。
映画作家として見事な作品群を生み出した木下恵介が、その後の活躍先として選択したのがテレビメディアでした。そして、その晩年にテレビから資金を得て作りたい映画をと請われて作ったのが「衝動殺人 息子よ」79年でした。この映画が犯罪被害者救済制度の法制化を後押しした事実を忘れてはならないと思います。映画やテレビには、そういう力もあるのです。この映画の前半に、そのオマージュと思しき台詞がありました。
それでもボクはやってない」には、それだけの思いと怒りと力が込められた快作だと確信しています。

【追記】
いろんな方の感想を眺めて気づきます。
男性はおそらく99%以上、台詞通りに主人公のシロを前提として映画を鑑賞しています。ところが女性の方はそうではなく、最後まで主人公のシロに懐疑的な視点を持ち続けて鑑賞されているようです。
確かに、本編中に事件発生時の描写は存在していません。「ボクはやってない!」という言葉は主人公が一貫して発言していますが、カメラは事件当時の映像を見ていないのです。
痴漢犯罪というモチーフの特性が鑑賞上の性差を浮き彫りにし、そのこと自体が性犯罪への視線の性差も露にしてしまうという二次的な効果も生じる映画なのです。それを意図的に仕組んだとしたら、周防監督の知的レベルの高さには畏敬の念すらおぼえます。