「めぐり逢い」1957

kaoru11072008-01-06

一般に娯楽映画はどんなテーマを扱っていても、登場人物の関係の中に恋愛感情が描かれるものです。観客の感情を揺さぶるフックとしては「理」だけでは足りず「情」すなわち官能性が必要なのです。すべての映画は恋愛を描いていると言えますが、その中で主要人物間の恋愛感情の成就、または破綻を主に描写するものを“恋愛映画”と呼ぶことになります。

監督レオ・マッケリーが1939年にシャルル・ボワイエ主演で撮った「邂逅」を、自らリメイクした本作。ハリウッド黄金期のラブ・ロマンスの代表作の1本。これぞ“恋愛映画”のクラシックです。主演のケーリー・グラントとデボラ・カーがこれ以上ない程のはまり役で、軽妙且つシリアスという絶妙のバランス感で演じ切っています。二人の呼吸もピッタリで、軽妙なアドリブの連発を上手く現場で撮り込む場面もあった出来栄え。楽しくも切ない2時間が保証される訳です。

それぞれ経済的にも恵まれた婚約者を持つ身である男女(ニッキーとテリー)が、欧州からNYへの船旅を共にするうちに互いを真に愛すべき存在と気づく。下船間際に半年後の再会を約束。それぞれ婚約を解消し経済生活の目処を立ててからエンパイアステートビルの展望台で会おうと。しかし半年後、不幸なすれ違い。そこから孤独な時間を過ごした二人は、その冬のクリスマスに偶然の再会を果たすが・・・。

物語は単純明快な構成。「出会い」⇒「軽い惹かれ合い」⇒「決定的な出来事(祖母の家)」⇒「再会の約束」⇒「すれ違い」⇒「試練の時」⇒「再会1」⇒「再会2」。上映時間の前半がほぼ船旅で占められ、半年後の再会の約束を結んだことろで後半に入ります。後半の前半に再会の約束が裏切られる試練を配置して、その後に2段構えのクライマックスが用意されています。
上手いと思わされるのは、後半の感動に至るまでの伏線が、前半の船旅と祖母の家での出来事の中で全て張られていること。だから映画2時間内にある二人の記憶1年分が、ラスト数分で観客の脳裏に瞬時に蘇り、良質の“恋愛映画を観た!”と感動させられるのです。

沢木耕太郎氏の映画エッセイに「『愛』という言葉を口にできなかった二人のために」という素晴らしいタイトルがありますが、実は過去に名作と呼ばれた恋愛映画において、主人公の男女が“愛してる”とか“好きだ”と互いに口に出すことは少ないものです(そういうセリフが頻出してたらそれなりだと思ってください)。脚本家君塚良一氏も「脚本通りにはいかない」の中で、《世界中の脚本家が、「I LOVE YOU」の代わりのセリフを探している。》と記しています。
ご覧になった方ならお分かりのように、本作の主役二人から周囲の人物に至るまでめったに愛を口にしません。その代わりに「白いレースの肩掛け」「絵を描くという行為」「歌うという行為」にそれは込められ象徴化されていきます。直接ではなく間接にズラす。だからこそ、ラストで男がドアを開けるシーンから溢れる愛情に観客は共感できるのです。それがドラマの粋(いき)。

本作が公開されてから半世紀が過ぎ、娯楽映像作品のセクシャル・コードは大幅に緩和されました。ベッド・シーンを含めてラブ・シーン描写は相当直接的になってきたのです。それは恋愛映画にとっていわば両刃の剣。現実の男女が出会い恋の成就に向けての試練を経る中で、本作のようなズラした描写では刺激不足になってしまうのが現代。最近のいわゆる邦画ブームを支えた恋愛映画を思い起こしてください。それらのモチーフはの多くは、死者との再会だったり難病による別離だったりしませんか? そんな設定が直接的なラブ・シーンへの制約として機能して“ドラマとしての粋”を何とか維持しているように私には思えます。だって、私たちは恋愛映画に“間接的な愛の描写”を潜在的に望んでやまないのですから。

それにしても本作のデボラ・カー演ずるテリーというキャラクターの造形は素晴らしい。本作は対話シーンばかりで人物描写を深めていく脚本のお手本のようなものですが、セリフに散りばめられた彼女の過去のイメージの伝え方は本当に上手いです。例えば、婚約解消したら経済的に厳しくなることを互いに確認する会話において「ピンクシャンパンを飲む暮らしは難しい」と言った後でこんなセリフがあります。
テリー「ビールは好き?」
ニッキー「まあね」
テリー「父は飲んでた。朝からね」
ニッキー「・・・ビール党なんだ」
この僅かなセリフだけで、彼女の育った環境とニッキーの思いやりが描かれます。
そんなシナリオに加えて、デボラ・カーの常にピンで立って生きようとする姿勢からにじむ会話の妙、仕草の妙が人物の彫りを深くしています。

この正月に最初に鑑賞したのが本作。こんな名作を見逃していたのは勿体無いと思いました。