「宇宙戦争」2005

kaoru11072008-01-03

年は改まりましたがページ内容は変わり映えがしないと思います。本年も覗いて頂ける方が少しでもいらっしゃれば本当に嬉しく思います。さて、新年2作目の鑑賞はDVDにて(1作目は後日記します)。スピルバーグが一昨年に公開した「宇宙戦争」。

評判が沈んでいたこともあって鑑賞が先送りになっていました。すっかり時間が経ってしまいましたので、何の評判に左右されることなくまっさらな気分で対面しました。結果、これは相当の秀作だと思うに至りました。スピルバーグを見直しました。いろんな批評を再確認してみると評価は真っ二つ。絶賛と酷評に割れていますが、私は明らかに前者。高く評価いたします。

英作家H.G.ウェルズの古典SF「宇宙戦争」は、かつてバイロン・ハスキンが映画化していて今回はそのリメイク。あまりに有名な逸話としては、ラジオ全盛期にオーソン・ウェルズが報道スタイルに徹した演出でラジオドラマ化し、聴取者の一部がパニックに陥った騒動があります。私自身は確か小学5年生頃に佐世保市児童図書館で読んだのが最初の接点。異星人による侵略もののクラシックとして、子ども時代からきっちり頭と心に刻まれた物語です。
今回スピルバーグは、このあまりに有名な物語を最先端の映像技術でリメイクした訳ですが、非常に原作に忠実に製作演出しています。そのシンプルで誠実な姿勢にちょっと驚きました。

宇宙戦争 (創元SF文庫)

宇宙戦争 (創元SF文庫)

この「宇宙戦争」、原作でもインベーダーは突然地球上の脅威として降臨し余りにも強力な存在として描かれます。その暴力は圧倒的で、対する人間はまったく対抗する術を持ちません。その運命に翻弄される人間たちの物語が殆どすべてという救いのなさなのです。原作執筆は1898年。もう100年以上昔です。その頃に比すれば軍事テクノロジーは長足の進歩を遂げている訳ですが、今回の映画化は人間文明の進歩に一顧だにしません。100年前の原作に描かれたロンドン市民と英国軍同様、NY市民と米国軍はまったく無力に描かれます。人間の知恵と勇気とは無縁の理由でインベーダーが倒れていくラストにおいて、ほんの僅かに人間の対抗のヒロイックなシーンが存在しますが、それは所謂おまけ、サービスシーンと言えるでしょう。
この演出描写は、侵略SFを娯楽大作として描く際の定石を無視した勇気ある行為、言い換えれば無謀な行為です。その姿勢に、私は驚いた訳です。

「ET」や「インディ・ジョーンズ」を送り出してきた天下のスピルバーグが、これまた天下のヒーロー:トム・クルーズを主演に、最新のCG技術を駆使して描く大作映画です。原作の骨子はどうあれ、そこには強大な侵略者に英知と体力の限りを尽くして対抗する地球人類のヒロイズムが貫かれてこそ、観客は手に汗握って燃えることができるのですし、それを十分以上に期待できる布陣な訳です。10年程前に「インディペンデンス・デイ」で味わった以上の醍醐味があるのだろう、そんな期待。それは見事に裏切られるのですから。一昨年の公開時、日本でも多くの方が失望したのでしょう。よくわかります。それが酷評の起点だと思います。そういうカタルシスを犠牲にしてまで、今回スピルバーグがやろうとしたことは何だったのか?

宇宙戦争 [DVD]

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湾岸労働者のレイ・フェリエ(クルーズ)は休日に離婚した妻との子ども、反抗期の兄ロビーと幼い妹のレイチェルを預かる。レイは自己中心的な男であり、子どもたちにも距離を置いて接する。当然子どもらも父親を疎んじてしまう。翌朝、その町に奇妙な稲妻が数十回も同じ場所に落ちる。レイは多くの野次馬たちとともに、落雷した場所を見にいくが、その地中から殺人マシーン・トライポッドが出現し、レーザー光線で人々を粉々にしていく。そのレーザーは破壊能力も兼ね備えており、町を焼き払う。なんとか逃げて生き延びたレイは、盗んだ車にレイチェルとロビーを乗せて町を出る。しかしトライポッドは世界中に多数現れて破壊と殺戮の限りを繰り返しており、逃げ場はどんどん失われていく。群集パニックの中、命からがらの逃避行を続けるレイ一家。ロビーとはぐれざるを得なかったレイは、レイチェルだけは守ろうと必死に奔走する中で、少しずつ父親としての自覚に目覚めていく。侵略者の暴力は止まず、やがて人類すべてが絶望に包まれようとしたとき、トライポッドが突如弱体化し、強大だった侵略者は自滅していった。その理由とは…。

トム・クルーズは本作において、特別な立場も能力も有しません。ごく一般庶民としての職能のみ、その上家庭経営にも失敗している円満とはいえない人格の偏りすらあります。スピルバーグは徹頭徹尾、この普通の米国庶民の中年男が見て感じることのみで本作を描きます。徹底したミクロ視点。俯瞰したマクロ視点は一切除外。主人公が他の町の様子を知るのもTV報道か人の噂話のみで、細心の注意を払ったかのよう。地球レベルの侵略SFであることを象徴したマクロ視点は、プロローグとエピローグのナレーションのみ。それすら余計なお世話に感じます。この視点、お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、スピルバーグ若き日の出世作「激突!」(1972)とそっくり。徹底した一人称で、理不尽な暴力に翻弄される男のあがきを描くというモチーフなのです。私は、華麗な存在になっていたスピルバーグが、この大作映画においてその原点に戻って演出していると、何だか嬉しくなってしまいました。

そして、本作の真の狙いは間違いなく米国民が戦争被害に直面するというシミュレーションです。そして、“9.11”が米国民に与えたインパクトを具象化することです。間違いありません。
一市民が巨大で強大な暴力に巻き込まれ翻弄される。その時、その暴力の正体が敵国による攻撃なのか、異教徒によるテロリズムなのか、異星人の侵略なのか、ある意味どれでも同じことです。そのような極限状態に放り込まれた渦中の一市民は、そんなマクロ視点など持ち得ません。眼前の圧倒的な暴力から、自身と大切な人間の生命を守ろうと必死にもがくこと、それしかないのです。世界の中で自国と住む町が戦場と化した経験を持つ人間にはわかるはずです。かつて広島・長崎・沖縄で、そして東京をはじめ空襲を受けたエリアに生きていた人間が直面した事実と真実です。そこには論理も倫理もなく悲惨と残酷があるだけです。9.11以前、自国本土が戦場とならなかった米国民にとって、それは想像もつかない地獄だったと思います。それがあの日のNYで初めて現実のものになったのです。そのことの意味を、ユダヤ民族であるスピルバーグは真剣に考えざるを得なかったことでしょう。それが、本作に色濃く反映されたとしか思えないのです。

白い灰まみれになる主人公の姿や、住宅街に墜落した大型旅客機の残骸など、9.11のイメージは様々な形で投影されています。それのみならず、トライポッドから逃れ続ける群衆の悲哀、理不尽にも唐突に破壊され続ける人間の肉体の悲惨は、第二次大戦時に例えば日本民族が味わった悲劇の二重写しにもなっています。きっとそれは監督の明確な意図ではなかったでしょうが、結果としてそうなっています。侵略者撃退のヒロイック・ファンタジーを期待した観客に、そんな陰鬱な二時間を強制するのですから、そりゃあ失望されるでしょう。でも、彼はそう描かざるを得なかった。私はそう信じます。

脚本も一本調子で、決して映画史上の名作などとは思いません。それでも、戦禍の悲惨の中で娘を寝付かせるために、懸命に子守唄を歌うクルーズの演技に、私は感動を覚えたのです。子どもの日常に心を寄せることなどなく、娘がアレルギー持ちであることすら知らなかった身勝手な父親。せがまれた子守唄の歌詞もメロディーも知らない。そんな彼が真剣に、必死に、若い頃に口ずさんでいた下品なポップスを侵略者に聞かれぬようかすれた小声で歌うのです。ハリウッド映画にこんなシーンが描かれたことは、私にとっては画期的なこと。だからこそ、私は本作を支持します。

…新年早々、またマニアックな記し方をしてしまいましたが、引き続き何卒よろしくお願いいたします。