「刑事コロンボ:忘れられたスター」1975

劇場公開された作品ではないが、コロンボシリーズは別格。70年代の各シリーズ群にはそんじょそこらの映画を凌駕する魅力がありました。マイベストは「別れのワイン」1973で動きませんが、この「忘れられたスター」も私にとって格別の作品。
コロンボは最初から犯人が判っているミステリー。倒叙ものと呼ばれる形式だからこその面白さを徹底的に追求していました。リンク&レヴィンソンという製作コンビ生涯の最高傑作シリーズ。犯人を米国上層階級の知的な人物とした上で、とことん風采の上がらないイタリア系の刑事コロンボを対峙させる。しかし彼はロス市警殺人課一のキレ者警部であり、難攻不落の完全犯罪を緻密な視点で解明していく。米国視聴者にとっては下層社会からエスタブリシュへの逆襲の快感もあったことでしょうが、その肌合い抜きでも知的パズルとして極めて上質でした。
「忘れられたスター」はシリーズも後半に製作され、シリーズのフォーマットから少々逸脱した異色作でした。何しろ本作はコロンボが犯人を劇中で逮捕しなかった唯一の作品。その逮捕に至らないラスト数分のドラマの切れ味と切なさと豊穣さ。初見は高校生だったと思いますが、年齢を重ねて再見したとき、何と優れたクリエイティブであったのかと唸らされました。
今回の犯人はハリウッド全盛期のミュージカル女優グレース。引退し年老いた彼女は劇的なカムバックを目論む。かつてのパートナー男優で大物プロデューサーのテッドを誘い主演公演を企画する。しかし彼女の夫は出資にも主演にも反対していた。ある晩グレースは自殺に見せかけて夫を殺害。着々とカムバック準備を開始する。老いた元医師の自殺と誰もが思った事件に、コロンボはどうしても腑に落ちないものを感じて…。

この作品の特異性は、登場人物に表面的な悪意や憎悪が存在しないこと。グレースにこそ犯意が存在しますが、それはスターだった若き日々への尽きせぬ想いの果てのエゴ。しかもシナリオは彼女の犯意自体の善悪を超越させる仕掛けを行っています。グレースを演じたのはジャネット・リー。彼女の最高の演技でしょう。劇中、グレースが懐かしさを込めて何度も観返す映画「Walking My Baby Back Home」は、彼女が本当に主演した実在の作品。しかもトリックに決定的役割を果たす小道具でもある。年老いたジャネット自身の人生が物語と渾然一体となり、凄絶だが切なくも可愛い女性を画面に焼き付けています。
彼女の犯行を示す決定的な謎解きをコロンボが行ったラスト。グレースを挟む二人の男、テッドとコロンボが交わす短い台詞こそ、本作のテーマを完璧に浮き彫りにしている。120分の展開はすべてこの二人の対話とその直後のヒロインのアップのためにこそ存在していたとわかる。しかもそこには、人間の人生という時間の蓄積のもつ重さと無常が込められており、本作がミステリー手法をも超越した文学であったことに思い至るのでした。

…本作を思い出したのは、今日テレビ朝日で放映されたドキュメンタリー番組を見たため。
俳優長門裕之氏と女優南田洋子氏の近況映像。おそらくはアルツハイマー症状に犯されつつある南田洋子と淡々と懸命に介護する長門裕之の映像に胸を衝かれました。長門裕之は果てしない葛藤の末にオンエアを許可したのでしょう。私は南田洋子の最も美しかった映像を知っています。もし病状がなければ、彼女自身絶対にオンエアは認めなかったはず。でもこれもひとつの現実であり、人生の黄昏のあり方のひとつです。ここにも確かに「忘れられたスター」はいました。その映像はシビアですがゆるぎない尊厳がありました。最近絶望気味にTVを捉えていますが、こういう映像を見ると、まだTVの可能性を信じたいです。