「なごり雪」2002

kaoru11072007-06-30

Photoすべて(C)PSC・TOS.E.P・大映
万人受けに何ら執着することなく、気に入ってくれるひとにだけ大切にそっと手渡してくれるかのような1本です。大林宣彦監督作品の持つ、非リアリズムの魅力がわかる観客への贈り物。監督自身が自らの21世紀を本作から始めたというように、旧世紀から新世紀への魂の贈り物なのでしょう。
人物設定も台詞回しも、衣装や小道具に至るまで、現実の臼杵の街を背景とする他はリアリズムを放棄して、物語のために生きている登場人物たちが描かれます。30数年前(劇中では28年前)の地方都市とはいえ、当時の若者があんな仕草であんな会話を交わしている訳もなく、そのハードルで多くの観客はついていけないことでしょう。
本作の評判があまり世間的な広がりを見せなかった最大の要因だと思います。
そういう演出の中からしか紡ぎ出せない映画劇としての人間の真実というものがある。これが大林監督の映画演出論の根幹です。往年の人気作の中では、「時をかける少女」1983に顕著でした。その頃監督は“極論ながら俳優も椅子も演出素材としては等価である”と、俳優さんが聞いたら怒り出すようなことを発言してました。「時かけ」は当時流行のアイドル映画、それも大宣伝でヒットを連発した角川映画の一本でしたので、この演出論の特色自体はあまり議論になりませんでした。しかし、「なごり雪」は世間的に耳目を集める話題性には乏しく、伊勢正三の名曲にしたって30代以下の方にとってはさほど切実な思い入れがある訳もなく、大分臼杵の方々以外には地味な映画として受けとめられるものでしょう。故にに、この非リアリズム演出がとても目だってしまったように思います。

妻に去られ気力を失っていた主人公梶村(三浦友和)に、故郷臼杵に住むかつての親友水田(ベンガル)から電話が入る。水田の妻雪子が事故で危篤状態であり、息のあるうちに見舞いに帰省して欲しいと告げられる。28年ぶりに帰郷する梶村は、水田や雪子と過ごした故郷の青春期を回想する。高校生だった梶村と水田が出会った頃の雪子(須藤温子)は中学生。やがて雪子は梶村への想いを募らせ、その姿を見守る水田という三角形のバランスがあった。その幸福なバランスは、梶村の大学進学に伴う上京で、次第に崩れていくことになる・・・。そうした28年前までの出来事から時を経て、梶村も水田も50歳を迎えている。二人の前には、包帯で全身を覆い既に意識もない雪子が横たわる。雪子が息をひきとるまでの三日間、梶村は過去に触れ何を思うのか。
そう。この物語は、もう若くはない男たち(敢えてそう書きます)にとっての贈り物です。
かつての切ない想いと、思慮も無く人を傷つけた残酷さを自覚できる世代が、時を超えて若い日の魂に触れる痛切のための物語です。その意味で、「なごり雪」2002は「時をかける少女」1983の返歌になっていると思います。伊勢正三が作詞作曲した「なごり雪」の歌詞を、そのまま台詞に埋め込むという臆面も無い演出、その非リアリズムから監督が手渡したかったもの、DVDの画面からではありますが、私は確かに受け取ったと思います。

しかし、本作のヒロイン須藤温子の清潔な可憐さは素晴らしいと思いました。さすがは大林宣彦、目が高いです。
本作の撮影からは随分時間も経過していますので、この女優さんの近影は知りませんが、この映画に閉じ込められた彼女のひと時の美しさは、永遠のものとなりました。エンドロールのカーテンコールも、「時かけ」の原田知世を踏襲しています。

なごり雪 デラックス版 [DVD]

なごり雪 デラックス版 [DVD]

本作の撮影開始直後に、NYの同時多発テロが起きたそうです。
おそらく、大林氏は昭和前期の面影を残す臼杵の街と、70年代に青春を過ごした者にとっての「なごり雪」という唄への想いから紡ぎ出すこの物語を、古めかしい非リアルな演出で贈り出すことに意地になられたことでしょう。
いかなる時代の進歩と葛藤の中にあっても、人が人に恋し切ない想いを胸に秘めることにこそ、人間の魂はこだわり悩み続けなければならず、それを無残に奪い去り圧殺する強大な暴力は、人として断じて認めないという信念が、この映画をより頑なものにしているように思えてなりません。でも、いやだからこそ、私は本作が大好きです。