「夕凪の街 桜の国」2007

映画としての完成度を云々する以前に、こうの史代氏の原作に心打たれていました。ずっとずっと気になっていました。レンタルにDVDが並んでから随分経ちますが、手に取る都度棚に戻していました。自分の中のひどく柔らかな部分に触れてしまいそうで何となく躊躇したのです。正月休みにようやく向き合いました。本作の物語は2部構成。第1部が昭和30年頃の広島を舞台にした「夕凪の街」。第2部が東京と広島をまたにかけて現代を描く「桜の国」。

写真はすべてⒸ2007「夕凪の街 桜の国」製作委員会
佐々部清監督は、できる限り原作を忠実に演出されたのでしょう。その姿勢はよく見て取れました。各部のクライマックスに視覚的な劇的要素を少し加えているのみ。いくつか原作の要諦を落としてしまった部分の物足りなさはあれ、世代を超えて観続けるべき出来栄えになっています。それを成立させたのが、「夕凪の街」編でヒロイン母娘を演じた藤村志保麻生久美子のキャスティングであると断じて批判されることはないでしょう。
この物語が読者の心の奥底に届くのは、平野皆実という、被爆後10年以上を経過しながら20代で生涯を終えねばならなかったヒロインの存在感が鮮烈だからです。麻生久美子の演技と語り口とビジュアルは、まるで原作の皆実がそのまま実体化したかのよう。紛れもない皆実がスクリーンに生きています。私は彼女を生涯忘れないでしょう。役者の存在感が思想や概念を具象化する価値を本当に実感できます。それほどに本作の彼女は素晴らしい。それは藤村志保のリアリズム演技が脇を固めた故でもあり、彼女の造形もまた素晴らしい。お二人は原作をよくよく消化されたのだと思います。「桜の国」編でも田中麗奈の演技がよく物語世界を支えています。願わくは堺正章には喜劇的演技を封じてもらいたかった。彼の存在感自体の持つ軽みだけで調和は図れたはずでした。それでもラストの西武線車中の彼はさすがです。

原作者こうの史代氏は戦後生まれ。彼女がこの物語を紡ぐに至った心情と経緯が原作の巻末に記されています。長崎に暮らした経験のある自分には非常によくわかります。戦争を同時代で体験された方々の手で、様々な広島・長崎の物語は紡がれて来ました。時の経過は遅くもなく早くもなく着実に歩を進め、やがて当時をリアルタイムで知るクリエイターは居なくなります。こう語っている私の世代すらそう長い滞留時間ではありません。この物語は、被爆の地に何らかの縁を得ている戦後生まれ世代の経験と感受性のみから紡ぎ得たもの。そうでなければ表現し得ないものが確かにあります。原作漫画にせよ映画にせよ、「夕凪の街 桜の国」に登場する人物たちの60数年間が、私には本当に哀しくて痛くて、いとおしくてなりません。

夕凪の街 桜の国 [DVD]

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こうの史代氏は、皆実のモノローグではっきりと表現します。あの時あの場所に居た人間は、そのことに触れる言葉を口にできない気分というものを。唐突な天災とは違う、他者から自分たちの存在に向けられた明確な軽視と殺意の存在を。しかも、その中を生きのびたこと自体が複雑な負い目と罪悪感として心底に巣食うことを。さらには日本人同士の中にも差別心情を育ててしまうことを。それらがすべて絡み合いながら決定的に被爆者を傷つけてるのだということを。その腹の底に留まり続ける巨大な塊を引っ張り出し、皆実に背負わせることが、この物語の本当の生命線なのだと思います。
「原爆は落ちたんやのうて、落とされたんよ」という映画オリジナルのセリフ。原作にもある、息絶える際の「嬉しい?」に続くモノローグ。麻生久美子のはかなく可憐な演技の中で、淡々と優しく吐き出されたこれらの言葉は、日本人が永遠に忘れてはならないものです。だからこそ、後半の「桜の国」編は、後の世代に引き継がれる現代のドラマでなければならないのです。
夕凪の街 桜の国 (双葉文庫)

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核の光を手にするには、人類はきっと未熟なのです。広島長崎、ビキニ環礁から長い年月が過ぎ、そのことへの意識が曖昧になっていました。事情も状況も異なれど1999年に東海村の臨界事故で人間を貫いた中性子線は、この光がいかに凄まじく残虐極まる凶器たり得るかを再認識させてくれました。暴走する核の光と火は、遺伝子レベルから人体を破壊します。即時でも長時間かけてでも。同時に人間の内面を深く酷く傷つけ抉り続けます。
「うちは、この世におってもええんかね?」
何世代にもわたって。日本に生まれた各世代が、皆実の物語を語り継いでいくこと、忘れずにいることは、最低限の役割だと強く思います。