「赤ひげ」1965

kaoru11072007-11-24


3時間5分という長尺でありながら、飽きたり間延びしたりすることの全くない見事な出来栄え。黒澤明監督全作品中、ある意味最も完成度の高い映画だろうと思います。所謂チャンバラ=殺陣がない時代劇でこれほど面白く観られる作劇はそうそうありません。
1962年「椿三十郎」、1963年「天国と地獄」と演出人生の中期における傑作娯楽映画をものにしてきた黒澤が、自らの集大成として乾坤一擲、2年がかりの製作の末に生み出した超大作。
TVの急速な普及に伴い斜陽化の影が広がりつつあった60年代邦画界の流れを変えたいという黒澤の願い。彼は本作にありったけの誠実さとヒューマニズムを注ぎ込みました。そして、磐石のキャスティング、一切の妥協なく作りこみ磨きこんだセットなど、当時の演出ノウハウの総てで創作した訳です。“これをヒットさせなければ邦画に未来はない”と。

赤ひげ <普及版> [DVD]

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山本周五郎の原作「赤ひげ診療譚」にオリジナルエピソードを加えてアレンジした物語。全体を貫くのは“貧困”と格闘する“人間の生と死”。そんな社会性を貫くのがデビュー作「姿三四郎」以来一貫している“師弟関係”を軸にした物語構造でした。集大成という看板に偽りはなく、それまでの黒澤映画の魅力的なエレメントが本当に粒を揃えて本作を構成しています。

江戸時代後期の小石川。幕府が貧者救済・公衆衛生を意図して公費で設立運営していた養生所があった。長崎で最新のオランダ医学を学び出世栄達を望む若き保本登(加山雄三)は、意図せざる形で小石川養生所に見習い医として住み込むことになった。彼は高きプライド故に、貧しく無知な患者たちや“赤ひげ”と呼ばれる無骨な養生所長:新出去定(にいで・きょじょう:三船敏郎)を嫌い反発を重ねる。その場からの脱出を望んだ保本だったが、赤ひげの医師としての確かな力量を目の当たりにすると共に、貧しい病者たちが胸に秘めた魂の真実に触れる中でその心情を変化させていく。
色情体質の狂女(香川京子)の逃亡、六助(藤原鎌足)とおくに(根岸明美)親娘の哀しいすれ違い、誠実な職人佐八(山崎努)の贖罪を医師として見つめる中で少しずつ成長した保本は、赤ひげと訪ねた吉原の女郎屋で出会った少女おとよ(仁木てるみ)を養生所に引き取り世話をすることになる。貧困の中で身内を亡くし他人を一切信じなくなってひねくれていたおとよと向き合う中で、保本はさらに内面的な成長を重ねていく・・・。

原作は短編の連作ですので、そのエピソードを単純に並べただけでは所謂“団子の串刺し”となって平板な物語になってしまいます。本作のシナリオはそういった点に慎重な配慮を重ねてあるので、こまかなエピソードが重層的に関わり合いながら映画内時間を適度な複雑さをもって紡いでいます。そう書くと難しく思えますが、簡明簡潔なわかりやすさを犠牲にすることなく、観客が混乱することは微塵もありません。まさに熟練の演出の技です。加えていつもの黒澤節。物語冒頭の15分程度で、観客がその作品世界を楽しむための基礎情報を要領よく説明してしまうテンポのよさも健在です。そうなのです。動きの少ない、ある種辛気臭くて説教くさいモチーフの物語を、観客に美味しく食べさせるために天才がその匠の腕を存分に振るった成果なのです。

本作中私を捉えて離さないのが前半のクライマックス、佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)のエピソードです。
そこそこ腕の良い職人佐八は、仕事の行き帰りで目にする店の奉公人おなかを見初めた。おなかは貧しい家庭に引け目を持っていたが佐八の情熱にほだされ、やがて二人は幸せな所帯を持つ。しばらくの幸せな日々の後、江戸の町を大地震が襲った。倒壊した長屋を探す佐八だが、おなかの姿は消えてしまった。訳の分からない失意の数年を過ごしていた佐八。しかし浅草寺ほおづき市の晩、佐八はおなかそっくりの女と出くわした。彼女の背中には乳飲み子が居た。やがて彼は、愛しい妻の切ない心情を思い知ることになる・・・。

佐八にせよおなかにせよ、身の丈にあった幸福を得ようと誠実に真摯に生きようと努めます。それでも二人は自らの努力のみではどうにもならない事情に左右され、掴めたはずのささやかな幸福を得られずに悲劇の坂を転がりもがくしかありません。その運命の切なさ。おなかが佐八に告げる台詞にある“自分がこんなに幸せであっていいはずがない”という謙譲の精神。現代日本ではほぼ消滅した心情の持つ美しさと哀しさが胸に迫ります。本作には、こんなエッセンスがどこを切ってもあふれ出すほど豊かに内包されています。
特にこの二人の再会シーンの見事さ美しさは素晴らしい。風鈴の音色のみが響く中、ふたりの無言の演技が強烈な真情描写となって画面から迸るのです。まさに名場面、名演出でした。

赤ひげ診療譚 (新潮文庫)

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インターミッションをはさんだ後半の展開は、黒澤のオリジナルエピソードたるおとよの物語。これもまた丁寧で面白く、目頭の熱くなる展開でこの大作を締めくくっていきます。大傑作「七人の侍」のような破天荒な面白さと若きダイナミズムはありませんが、「赤ひげ」には強い理想への希求と円熟の職人技が見事な完成度をもって豊かなシンフォニーを奏でている映画となっています。まさに日本映画の良心だと思います。

本作で、持てる演出技術の粋を形にし創作エネルギーを一旦出し切った黒澤は、以後の映画製作のあり方も作品世界の趣きも、明らかに変わったものになっていきます。二度と三船を主役に据える機会はありませんし、物語の面白さから“絵画的な”美の追求へと、そのモチーフをシフトしていくのです。
その意味でこの「赤ひげ」は、巨匠黒澤明が、最も多くの観客に愛された時代の作品群の総集編としてのポジションを占める、とても重要なものになっています。素晴らしい映画です。