「アバター」2009

“筋立てが新しい訳ではない”といったコメントを多く見かけますが、そんなことは本作の本質ではありません。商業映画として観客がきちんと楽しみ感動を体験して劇場を後にするための定石というものは必要で、それをどれだけ新しい表現としてクリエイトするかという挑戦です。それに本気で挑み、本当に成功させた男たちの仕事を素直に讃えれば良いと思います。彼らは“新しい革袋”を普及させることで、新しい地平を拓いたのです。そこに入れる“新しい酒”は、これからの創作者が競って開発していきます。勿論、ジェームズ・キャメロンはそのレースに自ら加わろうとするでしょうけれど。

写真はすべて(C) 2009 Twentieth Century Fox. All rights reserved.
映像テクノロジー展示会の趣きだった1985年のつくば科学博。2010年現在我々の周囲に登場している映像メディアの雛形は、大抵そこにありました。そこから約10年で「ジュラシック・パーク」、さらに10年で「アバター」。80年代に我々が夢見た技術はようやく一通り商業ベースに普及した訳です。開発された技術が大衆化するためには起点となる商業的成功が不可欠で、どんなに優秀な技術もそういう“初期値のインパクト”が現れないと埋もれっぱなしに終わってしまうもの。キャメロンが今回試みたのはまさにそれであり、CGと3Dが映画体験を新しいフェーズに移行させることを本気で証明したかった、ということです。
私は最近のハリウッド発CG体験的ファンタジー映画がどうしても肌に合わず困ってました。人類が手にしたCG映像の夢は、この程度のものだったのか?と。でも、流石はキャメロン。「エイリアン2」「T2」「タイタニック」と、常にマニアと大衆を共に納得させるアウトプットを繰り出してきた腕前はすこぶる健在。これらテクノロジーを使う必然があるシナリオに美的な高みを持たせ、圧倒的な商業的成功に至らしめる。日本の映画作家には資本が投下されないため、アルチザンからいつしかアーティストに移行してしまいがちですが、コンテンツビジネスとして成立させる志向がしっかりとあるハリウッドには、大スケールのアルチザンが生まれる訳です。

キャメロンが意図したかどうかは知りませんが、本作には数々の日本映画のエッセンスを観ることができます。宮崎駿であり円谷英二であり黒澤明の引用あるいはオマージュを見つけることは容易です。それにとどまらず例えばグリフィスの「イントレランス」1916といった無声映画時代に先人たちが目指した大スケール映画の夢をここに見つけることすらできます。「アバター」は商業映画100年の夢をひとまずわかりやすいパッケージに収めた成果だと思いました。ここで映画の歴史はひとつの区切りを迎えました。新しい物語ではない、のは当然でしょう。この映画はここまでの総括なのですから。そしてここから新しい映画の展開が始まるわけです。これは映画史的に大事なことだと思います。例えば、これからは映画料金の自由化も議論されてしかるべきでしょう。「アバター」のようなコンテンツと、安直なTVドラマの焼き直しコンテンツが同一料金であることが自然なのか…。映画興行という産業がどうあるべきかこそ、考えるべき課題です。

最後に、定番のキャメロン節の中で私好みの展開をひとつ。ミシェル・ロドリゲス演ずる海兵隊の女兵士のくだりが好き。こういうドラマの楽しさは、最新技術のハリウッド大作も仮名手本忠臣蔵も世界共通だったりします。
もうひとつ最後に。本作を観ながら、ひょっとするとキャメロンは、今後ヒロシマナガサキをモチーフにするかもしれないという予感がありました。日本人もうかうかしてはいられません。