「小暮写真館」2010

2ヵ月も更新をサボってしまいました。忙しかったこともありますが、書きたくなるネタに意外と出会わず、ちょっと不思議なブランクでした。

さて、久し振りに読んだ宮部みゆきの新刊。「小暮写真館」。

小暮写眞館 (書き下ろし100冊)

小暮写眞館 (書き下ろし100冊)

山本周五郎賞を獲った「火車」1992に舌を巻いてから随分経ちます。私は彼女の時代小説に馴染めなかったので、手にするのは専ら現代もの。おそらく直木賞の「理由」1997あたりから、この作家が描こうと思うゾーンが明らかになってきたように思います。その後のヒット作を読み継いではいないので、まったくの感触なのですが、そんな気がします。
「小暮写真館」は、所謂“心霊写真”をモチーフにした少年ミステリーの風情で語られる物語です。この読み進み感は、ミステリというよりジュヴナイル。その口当たりの軽い爽やかさが700ページを楽に牽引しますけれど、ここに仕込まれ散りばめられている人生のファクターは存外に深く重く広い。少年の成長物語の視野から、家族・家庭という人間関係のコアから繋がっていく現代社会の苦味と悲しみを噛みしめていく読書体験になるでしょう。
宮部氏は、まさに私と同学年。育った環境も異なりますが、本書の読後感は極めて共感度の高いものでした。「理由」あたりからの氏は、どうやら人生の中に存在するすべての“何かを丸ごと”描写しようとしている気がしていましたが、本書はその嚆矢ではないか、と思います。おそらく文芸だけが、それを可能とするジャンルであり、そのことに自覚的な作家なのだろう、と。宮部みゆきの語り口の見事さは、現代作家の中で群を抜いていると思います。氏はそのスキルを、“人生という山谷の中に存在するものを丸ごと”描写するために使おうとしているのだと(勝手に)思います。
特に、現代を描写しながら、日本の現代史まで認識を拡大していく仕掛け方、仕込み方と、散りばめたそれらのファクターが見事に整合して作品世界を紡いでいく手際には圧倒されました。今後も、この路線を突っ走ってほしいものです。

「七人の侍」1954

10代の頃、井上ひさし氏の作品はよく読みました。大人になってからは氏の主張のすべてを支持するという訳にはいかなくなりましたが、それでもエンタメとして文学として、常に高いレベルの描写を生み出し続ける力量とエネルギーには圧倒されてきました。
例えば1981年に日本SF大賞を受賞した「吉里吉里人」の面白さはどうだろう。思想性の高さを面白さの話術と抱腹絶倒のギャグで紡いだ大長編。東北の寒村が独特の技術立国(医学立国)をしてみせる痛快さは、閉塞状況にある30年後の我が国が十分検討すべきモチーフの見事さでした。

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

吉里吉里人(上) (新潮文庫)

そんな井上氏が愛してやまなかったのが劇映画。特に往年の日本映画に対する愛好の表出は、多くの映画ファンに豊かな影響を与えてきました。これからもそれは続くことでしょう。もう20年ほど前に、文芸春秋が文化人対象に日本映画ベストテンをアンケートした際、「10本選べとは酷だ。きっと11本目が辛くなる。100本選べと言われたら考える…」と言ったとか。そこで編集部は氏にのみ100本選べと再依頼。かくて氏は1980年代までの個人的ベスト100を長文のコメントをつけて回答。文春はそれを全文掲載。これが大層面白いミニ批評集の趣きで、繰り返し繰り返し読んでいます。そうして思い知るのですが、映画に関して記す文章に、私が最も影響を受けたのは井上氏でした。ああ、そうだったのか、と思いました。氏の映画文で最も素敵なものが、「七人の侍」のLD添付の冊子に掲載した「希望」です。以下、少し引用です。
 この作品に「世界映画史上、空前絶後の大傑作」という形容詞を捧げても決して褒めすぎにならないことは現在では常識のようなものだから別の褒め言葉が必要だろうと考えて、たった今、「映画という表現形式は黒澤明にこの作品を作り出させるために考え出されたものに外ならない」という一行を捻り出したところだ。ほんとうにこのぐらい褒めないと褒めたことにならないぐらい、凄くて、深くて、おもしろい作品であることは、ご覧になれば(あるいはご覧になった今では)、賢明な諸兄姉にはおわかりいただけるはずである。こうも言えるだろうか、「シェイクスピアの作品さえあれば演劇とはどんなものかわかるし、ドストエフスキーの作品さえあれば小説とはどんなものかわかる。それと同じように『七人の侍』さえあれば映画とはどんなものかわかるのだ」と。もちろんこういう言い方は、『姿三四郎』や『生きる』や『用心棒』や『天国と地獄』や『赤ひげ』や、さらにほかの監督たちのすばらしい仕事を無視することになりかねないから適切さを欠くのは確かだが、しばらくこのままの勢いで書くことをお許しいただきたい。・・・
私はこんなにも極端な偏愛に溢れながら、こんなにも節度と配慮の行き届いた微笑ましい書き出しを、映画の世界で読んだことがありません。全文掲載は憚られるので、関心ある方は、以下のムックに掲載されているので是非お読みいただければと思います。
黒沢明―天才の苦悩と創造 (キネ旬ムック)

黒沢明―天才の苦悩と創造 (キネ旬ムック)

そして、私がこの文章を忘れることができないのは終わり近くに記された以下の数行でした。私が映画を好きでい続ける理由の相当部分を、氏はすでに表現されていたのだと思います。合掌。
・・・すべて偉大な作品は、「どのように状況が悪くても生きることに絶望するな」と、人生という名の涙の谷で、悪戦苦闘を余儀なくされているわたしたちに励ましを贈ってくれるが、この作品を観直すたびに、救い主は、『七人の侍』という映画に姿を変えてすでに降臨しているのだと奮い立たないではいられなくなるのだ。・・・

「火の魚」2009

とっくに絶望してたTVドラマですが、時に鮮やかな光を放つ作品に出会うことがあります。ここ1年ほどに観た劇映画を含む国産の映像劇で、私には最良の作品でした。
映画とTVドラマの差異は、もはや映像技術ではなく興行形態の違いしかないと思っています。このNHK広島制作53分の単発ドラマは、中篇映画としてシネコンにかけても十分な質感です。芸術祭大賞も当然の出来栄え。

原作・シナリオ・キャスト・美術・音楽・演出、すべてがこれしかないという衝突と調和を見せる。些か言い過ぎかもしれないが、そう思えてしまう。室生犀星の小説からエッセンスを注意深く抽出し、丁寧に人物設定の中に描きこむ。その愛情と節度の鮮やかさ、美しさ。
何と言っても脚本の渡辺あや。その感性の突出。「天然コケッコー」2007でもおぼろげに感じましたが、今回は鮮やか。セリフの魅力をこれほどに感じさせるドラマは久し振りでした。特に尾野真千子演ずる折見とち子のセリフは、女優の旬ともあいまって品格と知性を感じます。それを受けとめ押し返す、原田芳雄の存在が見事。二人の対話劇をして、渡辺あやは“格闘技”のつもりで書いたと述べるのもうなずけます。
しかし、格闘技に見えて、それはやがて宝石のような人間の愛情の交感へとステージを変えていきます。クライマックスでのセリフの節度こそ、長いこと日本映画が忘れている無形の美。自分以外の誰かを大事に思うことは、“アイ・ラブ・ユー”で伝わるものではないのです。恋愛など皆無の物語なのに、観終われば純なラブシーンの残像が焼き付きました。

加えて、砂浜に描いた絵や、影絵の人形劇のショットの素晴らしさ。対話劇のみならず、ドラマ舞台を豊かに奥行き深く構築していった、その美学にも酔わされました。それだけの要素が詰まったわずか53分。これは日本のテレビメディアが生み出した、誇ってよいコンテンツのあり方でした。

「アバター」2009

“筋立てが新しい訳ではない”といったコメントを多く見かけますが、そんなことは本作の本質ではありません。商業映画として観客がきちんと楽しみ感動を体験して劇場を後にするための定石というものは必要で、それをどれだけ新しい表現としてクリエイトするかという挑戦です。それに本気で挑み、本当に成功させた男たちの仕事を素直に讃えれば良いと思います。彼らは“新しい革袋”を普及させることで、新しい地平を拓いたのです。そこに入れる“新しい酒”は、これからの創作者が競って開発していきます。勿論、ジェームズ・キャメロンはそのレースに自ら加わろうとするでしょうけれど。

写真はすべて(C) 2009 Twentieth Century Fox. All rights reserved.
映像テクノロジー展示会の趣きだった1985年のつくば科学博。2010年現在我々の周囲に登場している映像メディアの雛形は、大抵そこにありました。そこから約10年で「ジュラシック・パーク」、さらに10年で「アバター」。80年代に我々が夢見た技術はようやく一通り商業ベースに普及した訳です。開発された技術が大衆化するためには起点となる商業的成功が不可欠で、どんなに優秀な技術もそういう“初期値のインパクト”が現れないと埋もれっぱなしに終わってしまうもの。キャメロンが今回試みたのはまさにそれであり、CGと3Dが映画体験を新しいフェーズに移行させることを本気で証明したかった、ということです。
私は最近のハリウッド発CG体験的ファンタジー映画がどうしても肌に合わず困ってました。人類が手にしたCG映像の夢は、この程度のものだったのか?と。でも、流石はキャメロン。「エイリアン2」「T2」「タイタニック」と、常にマニアと大衆を共に納得させるアウトプットを繰り出してきた腕前はすこぶる健在。これらテクノロジーを使う必然があるシナリオに美的な高みを持たせ、圧倒的な商業的成功に至らしめる。日本の映画作家には資本が投下されないため、アルチザンからいつしかアーティストに移行してしまいがちですが、コンテンツビジネスとして成立させる志向がしっかりとあるハリウッドには、大スケールのアルチザンが生まれる訳です。

キャメロンが意図したかどうかは知りませんが、本作には数々の日本映画のエッセンスを観ることができます。宮崎駿であり円谷英二であり黒澤明の引用あるいはオマージュを見つけることは容易です。それにとどまらず例えばグリフィスの「イントレランス」1916といった無声映画時代に先人たちが目指した大スケール映画の夢をここに見つけることすらできます。「アバター」は商業映画100年の夢をひとまずわかりやすいパッケージに収めた成果だと思いました。ここで映画の歴史はひとつの区切りを迎えました。新しい物語ではない、のは当然でしょう。この映画はここまでの総括なのですから。そしてここから新しい映画の展開が始まるわけです。これは映画史的に大事なことだと思います。例えば、これからは映画料金の自由化も議論されてしかるべきでしょう。「アバター」のようなコンテンツと、安直なTVドラマの焼き直しコンテンツが同一料金であることが自然なのか…。映画興行という産業がどうあるべきかこそ、考えるべき課題です。

最後に、定番のキャメロン節の中で私好みの展開をひとつ。ミシェル・ロドリゲス演ずる海兵隊の女兵士のくだりが好き。こういうドラマの楽しさは、最新技術のハリウッド大作も仮名手本忠臣蔵も世界共通だったりします。
もうひとつ最後に。本作を観ながら、ひょっとするとキャメロンは、今後ヒロシマナガサキをモチーフにするかもしれないという予感がありました。日本人もうかうかしてはいられません。

「北国の帝王」1973

“男性的映画の巨匠”ロバート・アルドリッチの沢山の代表作のひとつ。長いこと“未だ観ぬ名作”として焦がれていました。リー・マービンアーネスト・ボーグナインの二人主演。キャストだけで最高濃度。硬派この上ない映画として評判通りのアクションでした。

不思議な映画です。本当にシンプルな筋立て。大抵の映画紹介に記されている要約は概ね以下の通り。
大恐慌の不況が全米を覆った大失業時代。失業者たちは移動手段として無賃乗車を繰り返し、その常習者たちはホーボーと呼ばれていた。鉄道会社はその防止に注力し、ある路線の鬼車掌シャックはホーボーの生命にすら容赦ない取り締まりで恐れられていた。ホーボーたちの中にエースと呼ばれる凄腕の男がいた。エースはシャックの乗務する列車に乗り込み二人は対決することになる…。
男心をくすぐる筋立てにワクワクすると共に、きっと実際の映画には様々な物語背景が描きこまれているのだろうと思っていました、かつて。ところが本編を観て感心します。この粗筋は要約ではなく、映画全編の詳しい表現でありました。本当にこれだけの映画です。なのに見応えたっぷり。ずしんと実の詰まった豊かな映画でした。

鬼車掌を演ずるボーグナイン。凄腕のホーボーを演ずるマービン。いかにも通好みの渋い男優たち。その表情と肉体の軋みがテーマを表現する。映像に物語らせるメディアを味わう喜び。男映画のもうひとりの巨匠、サム・ペキンパーの企画をアルドリッチが引き継いだ作品とのことですが、まあ、どっちが作ってもOK。こんな男たちの姿が最近の映画からは消えています。男性受難の時代なのかもしれません。

この映画の男たちの行動原理は何なのでしょう。映画には主人公たちの過去や心情を説明する無粋なセリフは殆どありません。無賃乗車に取り組む男と、防ぐ男。ただその行動の信念だけがビシビシと伝わってきます。彼らの中にあるモラルの存在が、観客を酔わせます。たかが“キセル”に身体を張り、命を懸け、プライドを賭けて闘う男の姿に酔います。そこに賢しい合理性などありません。
そうです。ストーリーを読んだ誰もが持つ疑問が、合理性の問題です。いかに不況の只中とはいえ、無賃乗車くらいに命とプライドを賭けるのか? しかし、この映画が衝くのはまさにこの一点。名優二人の肉体は、この非合理に説得力を与えます。“人間は合理性だけで生きちゃいないぜ”という心意気の映画なのです。そこにこそドラマのカタルシスは存在し、我々は映画に惹かれて止まない訳です。

「怪獣大戦争」1965

私が劇場で観たおそらく3本目の映画がこれ。実際には最初の公開から何年か経って“東宝チャンピオンまつり”のために短縮編集された「怪獣大戦争キングギドラゴジラ」を観ています。

怪獣映画としての質はそう高くない作品です。「三大怪獣・地球最大の決戦」と「地球防衛軍」を足して2で割った安直な企画であることは確か。円谷英二が腕を揮った作品のわりに怪獣の暴れる場面がグダグダ。作れば当たる“怪獣ブーム”は経済成長によるコスト上昇と相まって70年代に質的劣化をもたらします。本作にはその兆候が散見されます(ex.ゴジラの「シェー」ポーズ、旧作フィルムの流用等)。とはいえ、まだここには東宝特撮全盛期の輝きが残っています。
怪獣場面はともかく地球侵略を企む宇宙人と人類の攻防の面白さ。UFOがテクノロジーを誇示するシーンのパノラマの空間デザインはさすがに円谷ブランド。劇場のスクリーンの記憶がずっと鮮明に残ってます。その絵ゴコロには唸らされます。

“X星人”。何よりこのイメージが素晴らしい。彼らのコスチュームデザインなど半世紀近くを経過してもセンス良いです。彼らのリーダーを演じたのが土屋嘉男。既に売れっ子だったにも関わらず、終始素顔のわからない扮装できちんと演じきってます。黒澤明が自宅に住まわせ可愛がっただけの人徳を感じます。また、地球に潜入して工作活動をするも、ターゲットを愛してしまい抹殺される女性星人の水野久美。彼女のビジュアルインパクトもまた素晴らしい。キャラ設定がスパイものの常道でなかなか大人っぽい展開です。
彼女に惚れられる科学者にニック・アダムス。この小柄なハリウッド俳優は、今観るとダニエル・クレイグに印象が似てる。こんなイメージの連鎖も楽しいです。ある周波数の音がX星人の弱点であることを発見した人類が反攻に出るクライマックス。バックに畳み掛ける伊福部昭の「怪獣大戦争マーチ」。この燃える展開は、後にティム・バートンの「マーズ・アタック」が踏襲してまして、そんなイメージの連鎖も楽しいです。

ミレニアムゴジラベスト/伊福部昭 東宝特撮映画傑作集

ミレニアムゴジラベスト/伊福部昭 東宝特撮映画傑作集

上等な作品ではないですが、いろんな大人の事情の中でも本気で面白がって絵作りをしたカツドウ屋の心意気を見ることができます。本作主演の宝田明は現在75歳。今も現役で背筋の伸びた男意気を感じさせてくれます。彼が素晴らしいのは自分が怪獣映画を演じたキャリアをきちんと誇っていることです。本気で打ち込んだ仕事なら誇るのは当たり前。土屋氏や宝田氏の爽やかさはそこにあります。映画の何たるかなど知らなかった子どもの頃に、このイメージを体感できて良かったです。
怪獣大戦争 [DVD]

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「東のエデン」2009

劇場版は未見なので、ここではTV放映分全11話についてのみ言及しています。
商業映像コンテンツは往々にして見事に時代の気分を内包するもので、プロダクションIGで神山健治が作り出した本作はまさに該当する作品でした。羽海野チカのキャラ原案や、謎めいた設定を最後まで明らかにしないで引っ張っていく話術がこそ目立ちますが、神山監督が込めた硬質な社会性こそが本作の肝だと思います。同時代を撃ち抜くようなエッジの効いた描写にはなかなかお目にかかれなくなっている中、これは貴重です。

本作の2人の主人公、滝沢朗と森美咲がとても魅力的。彼らが直面する事態は突拍子も無いフィクションなのだけれど、日常の描写は日本の“今”のディティールを丁寧にすくい取っています。だから彼らの目線や感受性が絵空事になっていない。この愛すべき味わいが基調にあるため、物語展開がどんなに大風呂敷になってもついて行けます。新卒内定切りとミサイル攻撃を同一のドラマに描けるのは、そういう地に足の着いたディティール描写があるからです。そして滝沢の性格設定。どんな局面にあっても常に前向き、加えて他者に手を差し伸べる姿勢を決して忘れない。まさしく理想的なヒーロー像なのですが、それをうまくオブラートに包んで曲者感を出し、複雑な人物像を作っています。こんなヤツが現実にいたら皆を惹き付けて止まないでしょうね。

小説 東のエデン (ダ・ヴィンチブックス)

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そうした物語基盤の上に、ケレン味たっぷりのストーリーが乗っかる訳ですが、ここに込められる社会性が直球勝負。この日本を、これからの日本をどうしたいのか? という問題提起を突きつけてきます。感心するのは、そんな直球勝負をそのように単純には見せないという仕立て方の妙味です。そんな重苦しいテーマを単純に突きつけたところで誰も飲み込んではくれません。しかしドラマ展開が面白ければ話は別。ニート格差社会内定切りや学生起業…等々同時代のキーワードをうまくドラマに絡ませながら、硬派なテーマを巧みに織り込んでいます。時代の気分を描いたコンテンツとして、非常に興味深いものがありました。もっとも、劇場版での完結が前提となるためか、9話以降の展開がやや荒くなり、語り足りなさが目立ってしまいます。その意味では手放しで評価する訳にもいきません。それでも私には、今年完結する劇場版への期待があります。
東のエデン オフィシャルナビゲートBOOK (ぴあMOOK)

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フィルムコミック東のエデン

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